どちらも出来るほどお金は無くて、けれど迷う程のことでもない。
別に甥や姪が喜ぶところが見たいだとか、叔父としての見栄だとかそういうものじゃなくて、ただ、自分のためにお金を使うことへの抵抗があるだけ。
他に使い途がなければ、会いたい人の元へ行く。
けれどそれも相手が会いたいと言わなければ会おうとは思わない。
そうやって、自分に自分で罰を与えて、だからといって何にも満足なんて出来なくて、そうやって結果的に他人に与えられる善意や善行こそ「偽善」と呼ぶべきだろう。
親切は相手だけでなく自分も暖かい気持ちになると言うのなら、ただの義務感で行う私のそれは親切なんかではないのだろう。
少し前の話。
会計をしようとレジに立っていたおばあさんの杖がカチャンと音を立てて倒れた。
自分は反射的に倒れた杖に手を伸ばしかけ、そこで固まり手を引いた。
レジには応対中の店員さんがいたし、おばあさんのすぐ後ろには順番待ちの他の客が何人もいた。
そこから少し離れた自分が拾いに行くのは不自然ではないかと。誰かと善意の邪魔をしてしまう可能性があるのではないかと。そう思ってしまった。
そんな私に姉は言った。
「なにしてんの?拾ってあげなさいよ。」
困惑を含むその言葉の意味は分かっていた。私は杖を拾い上げおばあさんに手渡した。
ありがとうございます、と微笑む顔を私は直視出来なかった。
自分の善行が善行であるという自信。自信よりも確信に近い感覚。それを疑問に思うことすらないほど、再確認する必要のないほど当たり前に善行をする姉には私の気持ちは分からないだろう。
善行が必ずしも求められていることとは限らない。
困っているのがおばあさんでなく子供や若い人だったなら、まず間違いなく声を掛けたりなどしない。それは私の役目ではない。
誰にも声を掛けてもらえないような酔っ払いであったり、誰が声を掛けても不自然にはならないお年寄りでないと、と考えてしまう。