わたしのアール 解釈 | パンパンパンダのブログ

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ボカロ曲の私なりの解釈です。
今日初めてこの曲と出会いました。
恐らくたくさんの人が様々な解釈をして、出尽くしているかもしれませんが、それでも書きたいと思える曲だったので書いていこうと思います。


曲は飛び降り自殺を企図している女の子視点です。
屋上に行くたび、そこには先客がいて、自分より先に、しかも自分より弱い理由で自殺されるのが癪で、止めていきます。
最初の子は、三つ編みの女の子。
「ねえ、やめなよ」と声をかけます。
運命の人に振り向いてもらえなくて飛び降りようとします。
それに対して「奪われたこともないくせに」と心の中で女の子は思うのです。口に出していないのは大事なとこです。
三つ編みの女の子は「話を聞いてもらって楽になった」と消えていきます。
次が、背の低い女の子。
クラスで無視され居場所を奪われた。自分の居場所はどこにもないと飛び降りようとします。
それに対して、今度は「それでも家では愛されて、温かいごはんがあるんでしょ」と心の中で毒づく女の子。
背の低い女の子は、お腹が空いたと泣いて消えていきます。
そこから時間が空きます。
何人か間にいたような歌詞が出たあと、最後の女の子、黄色いカーディガンを着た女の子が現れます。
自分に似た子でした。また女の子は声を掛けます。
「ねえ、やめてよ」
黄色いカーディガンの女の子は家庭内暴力を受けていました。それが理由で自殺をしようとしています。
女の子は焦りました。自分にこの子は止められない。自殺の理由が自分と同じだから。自分には止める資格がない。
それでも、君を見てると辛くなるからいなくなってと頼みます。
黄色いカーディガンの女の子は、じゃあ今日はやめておく、と消えていきます。
そして、女の子が次に屋上に行った時、今度こそ誰もいませんでした。邪魔をされない。邪魔をしてもらえない。
黄色いカーディガンを脱ぎ、三つ編みを解いて、背の低い女の子は飛び降りる決意をする。

そこで歌は終わります。

衝撃を受けました。
登場した女の子たちは全部同一人物だったわけです。
ねえ、やめなよ、が、ねえ、やめてよ、に変わったのは、止めるべきことから止めてほしいことに変わったからだと思います。
彼女たちから話を聞く前に、その判断が出来ていた、ととることもできます。自分自身のことだから分かっていた、と説明がつきますね。
いなくなった、や、去っていった、ではなく、消えていった、であることも、そもそも存在していないという意味が考えられます。
自殺を考えた自分に対して、自分はまだマシだと、理性的に止められる自分が存在した。その理性こそがこの歌の主人公です。
背の低い女の子はその段階ではまだ家に居場所はありました。けれど、黄色いカーディガンの子ではその居場所すらなくなっている。歌詞に載っていない複数人の間に家庭環境が変わったと考えるのが自然でしょう。
反論に対し、それを越える状況を抱える女の子が現れる、それに対して反論する。という流れから、勝手に補間するとすれば、親の離婚、からの再婚、再婚相手からの偏愛、母親からの嫉妬、そして暴力、でしょうか。壮絶ですね。
まだ、自分にはこれがある。だからまだ生きられる。その「これ」を次々に失っていく。
そして、最後には、ただ生きたい、死にたくない、という生存本能だけが残る。本能の叫びはギリギリのところで黄色いカーディガンの女の子に届く。それでも事態は先延ばしになっただけ。
結局のところ、女の子を助けてきたのは女の子自身。他には誰もいなかった。そして、今回助けてくれる人はいない。理性ももう諦めてしまった。

さて、女の子は飛び降りたのでしょうか。

ここからは作者の意図と異なることを分かっている上で書きます。
「わたしのアール」というタイトルは「わたしのR」であり、Rは屋上を意味しています。つまりは「私の屋上」。曲名から、この「屋上」にはそもそも他の人は存在していない、と捉えることも出来ますが、逆に、誰かの介入が有り得る可能性を感じるのです。
私の屋上で私は孤独のまま飛び降りをする、はずが、そこに誰かが現れる。理性が代わりをしていた「止める役」になる誰かが現れる。
そして、初めて女の子は自分のことを他人に打ち明けることが出来る。
止める役が誰であるかについては、誰でもいいかなと思っています。というのも最初に出てきた「運命の人」であったり、女の子の親であったりすることは、少し出来すぎだと思ってしまうからです。誰でもいいんです。
やめてよ、ではなく、やめなよ、と言ってくれる人であれば誰でも。

結論、私は女の子は飛び降りをしなかった、と思っています。

作者さんはあえてこの部分は伏せています。
想像にお任せします、というやつです。
なので、飛び降りない方を選びました。
きっと自分に当てはめてしまったんだろうな、と。私を止めてくれる誰かが欲しいんです。切実!

追記:女の子は「先を越されるのが嫌だった」ことを考えると、理性という考え方はズレてますね。過去の自分に対する戒めの方が近いかもしれません。
けれど、それだと、その過去の自分を助けたのは誰なのか、と。
三つ編みの女の子は「話を聞いてもらって楽になった」と言ったことから、誰かに話を聞いてもらったことは明らかです。
別の誰かが存在していたとすると、女の子が言った、自分の悩みは誰にも聞いてもらえない、ということと矛盾します。
ならば、これは同じ時間に同じ女の子が二人存在していたのかもしれません。過去の自分を助けたのは未来の自分。この方が辻褄は合う気がしました。
三つ編みの女の子の話を「どこかで聞いたような」と言っているのは、マンガなどでよくある、ではなく、過去の自分がそうだった、という意味ではないかと。
もしも、未来の自分が過去の自分を助けていたなら、きっと女の子自身にその自覚はありません。
そして、今の女の子を更に未来の女の子が助ける、というのも話の流れからしてないと思われます。
仮にあるとすれば、それはもうややこしいことになります。
それぞれの私が過去の私を助けるために時間を飛び越えていた。この「屋上」自体がそういう空間だったのかもしれません。過去と現在を繋ぐような。女の子がどれだけの頻度で飛び降りようとしていたのかは分かりませんが、その度に必ず誰かがいる、ってのはさすがにおかしいですもんね。そういう場所だった、が適切な気がします。「私の屋上」は特別だった。
背の低い女の子は三つ編みの女の子を助けたが自分自身を助けることは出来なかった。その次の女の子は三つ編みの女の子と背の低い女の子を助けることが出来たがその子自身を助けることが出来なかった。と、次々にそれまでの女の子の自殺を止めることの出来る「資格」を持つ女の子が用意された。けれどこれはあまりにも残酷です。
本人を救うことは出来ないのですから。
歌の中の主人公は、それ以外の自分のことを認識しています。自分自身であったことを知っているかは別です。そのことから、この子は飛び降りてしまうと考えられます。そして、この子を救うための別の女の子が用意され、時間がやり直され、この子は突然現れた女の子に助けられ、自殺を思いとどまる。が、その誰とも分からない女の子は自殺してしまう。と繰り返していく。
つまり、この女の子は飛び降りたのか、について、飛び降りたし飛び降りなかった、という答えも存在し得ると思いました。

ここまで言っておいてなんですが、女の子はそれまでの女の子たちの特徴をすべて含んでいます。これが、女の子たちが同一人物であることを分からせるための設定、なのか、そうではなく理由があるのか、によって更に話は変わります。
が、分かりやすくするため、だと思っておきます。あまり考え過ぎると逆に曲を壊してしまうので。