善はその人が「善である」と分類していることであり、悪はその人が「悪である」と分類していることだ。
任意の二人による善悪の分類が噛み合わないことは珍しいことではなく、場合によっては真逆になりうる。
某国の、名前も付けられ愛されていたライオンが、猟を楽しむ人間に殺されたことに対して非難が集まっているというニュースが以前あった。
ライオンが可哀想だと、その気持ちは紛れもない善だった。
しかし、現地付近に住む者は脅威であった生物がいなくなり猟師に感謝するものが多かったという。ライオンに住人を殺されることもあったようだ。それが正しければ、その住人にとってその猟師の行いは善だった。
猟師は単に猟を楽しんでいた。ライオンが脅威だったから、とか、名前が付けられているのを知っていた、とか、そういう情報は分からない。それでも恐らく、その猟師の中でライオン殺しは善でも悪でもないのだろう。
地球から見たらどうだろうか。食べる以外の目的で他の生物を殺すのは人間だけだ、という主張は近頃聞かなくなったように思う。人間だけが特別なわけではない。勝手な推察しか出来ないが、地球目線でも善悪どちらでもない。
視点が違えばそれだけ考えは変わり、善悪など決められないことばかりだ。
殺人が悪いことだと当たり前のように思っていても、その加害者が被害者によって目も当てられない程の酷い目に遭っていた場合、生命維持装置を停止する所謂尊厳死、など、加害者に対して「殺しても仕方ない」もしくは「それは殺人でない」など思うこともあるのではないだろうか。自殺も同様だ。逃げようのない酷い虐待を受けていた、重い病気に罹っていたが治療をまともに受けられる状態ではなかった、など。
人一人の中でも善悪は揺らぐ。例外という言い訳を作ることで人は善悪を保ち、それを守るか破るか、そこで人は選択を行う。善と思い善行をするか、悪と思い悪行をするか。
善と悪に境界線などない。善と悪は真逆ではない。善と悪は並んでいる。一人ひとりの心の中と目の前にそれぞれ善悪が並んでいる。目の前にあるものは一般的な善悪だ。それは絶対的な一般ではなく、あくまでその個人の考える「一般的な善悪」。その人がどう選択したかなど他人には分からない。それでも人は推測してしまう。自分のものさしで測ってしまう。
大事なことは自分の中の善悪を確立すること。
誰かに非難されても折れずに自分を信じ続けること。
それが出来ずに他人を信じることなどできない。
それが出来ずに善悪の判断など出来ない。