世間が所謂ポストモダンと呼ばれる時代へ転換してゆくにつれ、人々を取り巻く世界は「大きな物語」から、「小さな物語」の集合体へと移り変わってゆく。
社会学者リオタールの発表した有名な言説だ。
では、ポストモダン以前と以降の人々が求める「世界」はどのように異なるのか。
第二次世界大戦が集結し、国同士の均衡の推移が我々の生活の主要な関心事となることは以前と比べてそれほど多くはなくなった。
それらの物に強い関心を持たずとも、現代は「生きていける」世界だからだ。
我々の関心は国政やイデオロギー等、共通の共同体に生きる人々全体を取り巻く概念から、趣味的とすら呼べる様々な文化により強く向けられるようになった。
ラジオやテレビに始まり、近年ではインターネットの急速な隆盛も加わり、自分自身が「浸る」世界を、より簡単に現代では選び取ることが出来る。
情報化社会には、自分自身の世界の構築に役立てられる無数のエレメントが鏤められている。
自分自身のために選び取られる世界。不要な世界。切り捨てられる世界。
結果、人々の心の中には「だから何?」が増える。
みずからの体と頭と感性を使い、未知の世界を認識していく作業ですら、横溢する情報は補完してくれる。
「知る」「考える」「感じる」事も、ITメディアは我々の身体機能の拡張として、その役割を全うする。
「大きな物語」を生きた過去の人々と、無数の「小さな物語」を自ら選び取って生きる私たち。
両者に共通する「人生の価値」「生きる喜び」とすら言えるものは何処にあるのか。
答えは、人によって異なるのだろうか。
ある著名な日本人作家は、我々が共通して持つ「身体」の感覚にそれを見いだした。
心と体の目的は何処へ向かうのか。