息子たちが小学生くらいになったらきっと手狭になるんだろうなというサイズの、決して高級とはいない国道沿いのマンション群の部屋のひとつが今の私と家族の住処である。実家を含め、国内外で何度かの引っ越しを経験しているが、ここが最も気に入っている。最寄り駅まで徒歩五分、そして海まで徒歩十分というロケーションが最高だ。

 そして何より、一年に一度のこのマンション、この部屋のスペシャルな特徴が、ベランダから花火が見える、ということである。前述のとおり、それなりの都市の国道沿いのマンション群の一角の角部屋である、我が家。そこからはちょうど角度的に海側に視界が開け、花火か盛大に見えるのだ。マンションに縁どられた空ではあるが、それでも十分に大きな花火を堪能でき、打ち上げられる音が腹にドーンと響く。庶民にとっては何とも贅沢な、予想外にラッキーな部屋の選択であった。

  今日は当地の今年の花火大会だった。日本でも珍しく人口が増加傾向である政令都市の税収にモノを言わせた大きな花火大会であり、他の花火の多くが夏に催されるのに対して、珍しい春の花火大会ということで、県内では結構なビッグイベントとして、それなりに話題になる花火大会である。

 

 午後7時半。大きな音とともに花火が打ちあがった。私は小さなベランダにつながる自室の窓をあけ、部屋の電気をけした。窓際にソファーを移動させて、家族4人で花火を見た。ビルとビルの間に大きな花火が次々と打ちあがる。もうすぐ3歳になる次男は、花火の音がコワい、と言って泣きながらテレビの部屋に逃げていってしまった。もうすぐ5歳になる長男は、ソファーの上で胡坐をかく私の上にちょこんと座って、なにやら歓声をあげてみている。隣では実家の親に見せてやりたい、と妻が携帯を操作しながら、花火の動画をとったり、写真をとったりと悪戦苦闘している。毎年この年に味わえる、幸せな時間だ。ふと、いつまで息子たちとこんな時間を過ごせるのだろう、とじんわりと幸せなような、寂しいような、不思議な感情が入り混じった気持ちになる。

 

 我が家の息子たちふたりは、そろって春生まれだ。もうすぐ彼らはそれぞれまたひとつずつ年をとる。当地に引っ越してきて丸5年。今回で5回目の自宅ベランダからの花火鑑賞であるが、思えばそのうち2回は出産を控えた妻は、息子を宿したデカい腹を抱えて花火を見ていた。

 大人になって、春という季節に真新しさや、新鮮味を感じなくなって久しいが、子供らが生まれた春だけは、「何かがはじまるな…」というような、かつて、特に学生時代に感じていた、期待感やら不安感の入り混じった、「春らしい」感情を久々に感じたものだ。

 今年は家族そろって自室で花火を見ていたのだが、花火を見ながらも、いわゆるADHD気質の私は過去に見た様々な花火の記憶が走馬灯のように頭を駆け巡った。



 昔付き合っていた彼女とはじめてデートに行ったのは、学生時代、東京都下のとある花火大会だった。なんだかやたら人が多くて、それなりに有名な花火大会の割には打ち上げられる花火の数は少なくてがっかりしたが、まだ二十歳そこそこだった私にとって、花火はデートをする言い訳みたいなもので、結局のところ、花火はどうでもよかった。帰りにマックに行ってから帰った。

 そして約10年後、その彼女と最後に旅行に行ったのは鹿児島だった。毎年夏に開催される錦江湾花火大会を見に、である。覚えているのは、シンプルに花火だけで十分綺麗なのに、レーザービームが地上から出ていたり、BGMがやたらと流れていたり、何だか風流じゃねえなあ、、、という感想だ。だがそんな感想さえも、そのあとの酒のネタになって楽しかった。酔っ払ったままホテルに帰り、セックスをした。それが彼女との最後のセックスだった。

 その約1年後、自分でも驚きの決断だったのだが、私はその子と別れた。不義理はしたつもりは全くないが、約10年に渡る付き合いにピリオドを打つのは、自分から切り出したこととはいえ、相当ヘビーなものであった。とはいえ、私はそれを引きずるわけにはいかなかった。当時まだプロ格闘家であった私は、その2か月後に試合を控えていたのである。

 

 結局、それが私のラストファイトとなった。打撃を受けての網膜剥離、という格闘家としてはクリティカルな大けがをその試合で負ったのである。腫れあがった顔面のまま、私は即入院となった。

 紹介された大学病院で即日手術を受け、そのまま10日間の入院となった。入院期間は地獄だった。当時は視野が狭く、格闘技こそが自分の人生のすべてだと思い込んでいた。そして、長年狙っていた目標は達成間近に見えていた。それが、目の怪我によって医者、そして師匠から引退宣告をされた。人生の目的を失ったようで、目の前が文字通り真っ暗になった。…網膜剥離の治療は、術後しばらく常にうつ伏せの状態を保たなければならない。U字型にくりぬかれた枕に頭をうずめ、ひたすらと絶望と向き合う。一日が信じられないくらい長い。これは地獄か…大げさにもそんなことを感じた。恥ずかしいが、人目もはばからず私は涙をこぼし続けていた。

 入院して、おそらく4日目くらいか。ようやくうつ伏せ状態をやめる許可が医者から出た。眼帯で片目を塞がれたまま、普通の姿勢になることが許可され、少しならば歩いてもよい、と言われた。しかし、振動でまた網膜ははがれてしまう可能性があるから極力動いてはいけないと医者に言われていたので、相変わらず行動は制限されていた。網膜がはがれて落ちてしまうこと、それは即ち失明である、との説明を受けた。

 トイレにいったり、歯磨きをしにいったり、ちょっと共用スペースに散歩にいったり。そんな些細な行動がとても楽しかった。それでも私は、ひと気のないベンチで涙がこらえられなくなって泣いたり、おかしな精神状態になっていたものだ。

 入院9日目の退院前夜。夜の病院食をたべて、ふと共用スペースの窓外をみてみると、遠くに花火が打ちあがっていた。ちかくにいたお婆さんは小さく拍手をして、「きれいねえ」とやさしい口調で私に話かけてくれた。花火を見るのは前年の鹿児島での花火以来だった。…一年で何もかも変わった。長く付き合った彼女を失い、自分のすべてだと盲目的に思って、アイデンティティのよりどころとしていた格闘技を失った。前年は彼女た肩を並べて花火をみて、そして一年後には病院の窓から片目をふさがれたまま、見知らぬおばあさんとともに、名も知れぬ花火大会を見ている。おばあさんは気が付かなかったと思うが、涙があふれてきた。

 

 今日の花火も見事だった。無邪気に歓声をあげる長男と、怖がって騒ぎまくる次男。この部屋を選んだのはほんとラッキーだったね、と改めて妻が言った。なんだかんだで、格闘技が私のすべてだったなんてのは勘違いだったのは今はわかるし、あの頃も楽しかったが、今のほうがよっぽどしあわせだ。

 

 さて、最近、転職活動を始めた。年齢的にも職を変えるにはラストチャンスであろうと思うし、何より自分自身がどこかでブレイクスルーするには、今の心地の良いぬるま湯から出て、ふたたび何かに没頭しなければならないと思ったからだ。


 来年、またこの花火を見るころには、私たち家族、私はどうなっていることだろう。そんなことを思うと、この春も、大人になって感じなくなっていた、かつての春の様な匂いが漂ってくる。

 

 来年の当地の花火大会が楽しみである。