世田谷は20節を終了し、最下位と低迷しているが、球団初の2ケタ投手が誕生する可能性が現実味をましてきた。


38年度ドラフト1位 科埜投手は今期は早くも9勝をあげ世田谷初の2ケタ投手を王手をかけている。
昨年は星名投手が9勝をあげたが2ケタには惜しくも届かなかった。

球団の歴史を辿っても36年度の沖夕投手が上げた11勝以来の達成となる。



また4シーズン連続開幕投手を務めた世田谷のエース 山河投手が2軍落ちの予定だ。

今季は3勝12敗と精彩を欠いていた。

通算50勝まであと2勝と迫っているだけに早い復帰が望まれる。


若き新エースと旧エースの奮起に今後も期待だ。

38年度オフにBPOL事務局に世田谷の市民団体から連絡が入った。

「道後の経営を引き継ぎたい。」

この電話を入れたのが現オーナーのFROG氏だった。

FROG氏は以前から「世田谷にプロ野球の球団を」と誘致活動を続けていたが話がまとまる球団がいなかった。

数日後、BPOL事務局にてFROG氏と当時の選手会長の村戸投手と選手数人による話し合いが持たれた。

当時の主力選手大半が東京の世田谷という土地に行くということを拒んだが、
FROGオーナーは選手を駒沢オリンピック公園近くの工事現場に連れていった。

FROG「この場所が君たちの来年のホームグランドだよ。私はこのチームを本気で強くする気持ちがある。世田谷を野球王国にしたいんだよ。」

この言葉に最初は拒んでいた選手たちも世田谷行きを了承。


その後、監督にFROG氏の親交のあるアメリカ独立リーグで指導者留学中の根村氏に監督を打診。

BPOL事務局へ加盟申請と急ピッチで事が行われ、

38年度オフに世田谷キングダムが誕生するのだった。

しかし、新球団だからといってチーム力は変わりはなく、不安を残したスタートだった。



球場視察をする選手たち
世田谷キングダム情報局-建設前の球場視察
球団は最悪の状態から道後坊ちゃんずへと経営が譲渡された。

その年のオフから有望若手選手、エース級の投手が某球団に大型トレードという名目で移籍した。

このときはBPOLコミッショナー及び各球団関係者も連続最下位を止めるための即戦力の補強と見られた。

エースがいなくなり、ベテランばかりでは1年を通して話にならず最下位と沈んだ。

37年度オフには前年のドラフト1位、そして当時守護神の某外国人の移籍で少なからず、道後の編成に各球団の疑問を持つようになったが問題は明るみには出なかった。

ところが38年度シーズン前半も終わりにBPOLコミッショナーから衝撃事実が告げられた。

道後が某球団の傘下になっていたのだった。


BPOL事務局からでた処分は経営権剥奪と重い処分だったが、それ以上に苦しかったのが
親会社なしで後半戦の戦いを強いられた選手たちだった。

経営縮小のため、遠征も飛行機からバス、新幹線から特急電車、高級ホテルからシティホテルと選手の環境も劣悪なものに。

「当時はホテルの部屋で素振りをしようとしたらどこで素振りしても壁に当たる狭さだったよ。
それで相部屋だから参ったよ。」(当時の某内野手)

このチーム環境ではチームは試合どころではなく、言うまでなくチームは最下位を独走。

チームは落ちるところまで落ち、来期はどうなるのかはわからない状態だった。




謝罪するチームスタッフ(当時の経営陣)
世田谷キングダム情報局-謝罪会見