イタリア行きの飛行機にグラディエーターをチョイスしているのはセンスが良い。もう一度観てローマの予習とした。

イタリアはあまりに美し過ぎた。道が綺麗とか、人が綺麗とか、道路が整備されているとか、クラクションがなく車がゆったりとしているとか、そういうのもあるかもしれないけれど、イタリアを形容するのであれば綺麗ではなく美しかった。インドは道端にゴミ捨て場が併設されており、臭いや虫等衛生面での汚さがあったがイタリアにはもちろん全くない。あってもタバコの吸い殻くらいである(イタリアは路上喫煙が制限されていないらしく多くの人が吸って捨てている)。この差がより美しさを際立たせているというのも一理ある。ただ、僕にはこの美しさは似つかわしくないように感じられた。

バスの中から見るイタリア、実際に歩いて見るイタリア、観光地としてのイタリア、その全てが今までの旅を否定してくるような気がしてしまった。アジアの国々を周り様々な街や遺跡、文化を見てリスペクトしてきた自分にあまりに無情に「正解」を突きつけてきた。これが美である、と暴力紛いに言わんばかりの国、アジア諸国で滞在しながら良い所を見出してきた自分は一体何を求めていたのか…良い所、なら初めから旅をせずとも簡単に辿り着けることができたのではないか…

僕はもうイタリアの虜になってしまっていた。時間がゆったりと流れ、無駄とも言えるほどに置かれてあるベンチで腰をかけ通り過ぎ行く人を見てのんびりとする。飽きたら別の景色を見て同じことを繰り返す。日が照っているなら公園で日焼けをする。日焼けは時間の贅沢が効く人間にのみ許された行為である。

歩いている最中に声をかけられた。ハシシの店を知らないか。ハシシなんていう言葉は本の中でしか聞いたことがないが、大麻のようなものであるのは理解していた。イタリアでは違法じゃないのか?と聞くと母国のイングランドでももちろん違法だけど街中で吸っているんだ、と。自己紹介をされなくてもわかるほどのイギリス訛りであったが、君はイタリアに住んでいるの?と聞かれて少し嬉しくなる自分がいた。早速この国に馴染めているということではないか。あまりに堂々と歩いていたからかもしれないが、東洋の見た目をしていながらこのように間違えられるのは珍しいはずで、喜ばしい。

夜にアペリティーボを試してみることにした。アペリティーボとは、カクテルを1杯頼めばビュッフェ形式で無限に料理を楽しめるという、イタリア式の食べ放題だった。外で景色を眺めながら食事を愉しむのが夢だったので、1人で来ている客はいなかったが参加してみたのだ。イタリアの店員さんはみな愛想が良く、差別というものは一切感じられない(実際中国や日本の観光客が多く、無視できない存在になっているのかもしれない)。アジア諸国とは全く別のイタリアンの味付け、完璧だった。なんとか味を覚えて帰ろうとできるだけ沢山の種類の食べ物を取る。席で食べていると新しくできたものを運んできてくれる。不要な時はノー、グラッツェと言い、必要な時は入れてもらう。イタリアのランダムな食事を味わいたかったため僕はイェス、プリーズと答えることが多かった。思いの外早くお腹は膨れた。旅の間に胃袋が縮んでしまったのかもしれない。

兎にも角にも、1人旅は一度中断となるのだ。