本当の経歴1 私の誕生〜 | 境界性人格障害・不安との闘い24時 あきらめないで・・・「アダルトチルドレンを生きぬき」

境界性人格障害・不安との闘い24時 あきらめないで・・・「アダルトチルドレンを生きぬき」

境界性人格障害・アダルトチルドレン・不安とパニックの日々。それにともなう心身症。精神的虐待、身体的虐待、性的虐待の全てを生き延び、子供時代を今だからこそ語れる真実の話。

1980年11月、私は産まれる。両親は私が6ヶ月の時に結婚をしたが、危うく殺されかけるのをまのがれてのこの世誕生だった。
私の妊娠を機に結婚する事を決めた両親だったが、そこに立ちはだかる祖母の問題。
父方の家は、学歴、家柄等を酷く気にする家だった為、高卒の母と結婚することに目を回した祖母は大反対。おまけに寝込んでしまう。(後に私が中学生の時に「だいたいあの二人の結婚には反対だったのに、あんたがお腹にいたからね~」という言葉を容赦なく浴びせられる事になる)
父は祖母の気持ちを察し、結婚することをキャンセルしようとしたらしいが、結婚と私の誕生まで何とかこぎ着ける。私が産まれる前後も母の精神状態はかなりの不安的であったことがうかがえた。
その後、母と祖母は産まれた私の取り合いを日々繰り返し、母は怒りを日々感じていた。

私が2歳の時に妹が、3歳の時には弟が誕生し、3歳で3人兄弟の長女となる。
その他、この世には産まれてこれなかった兄弟が私には3人もいる。全員産まれていれば6人兄弟のはずである。3人全員とまでは不明であるが、少なくても数名は中絶手術により産まれてこれなかった私の兄弟である。

私は何ともおとなしい子供として育つ。おとなしいと周りの人から評判がでるくらいおとなしい子だった。幼稚園では、友達に自分から話したり、外で駆け回って遊んだりは絶対にしない子だった。
母は、外出を避けたがり、約20分かけての徒歩での通園、特に帰りは多くのお母様方が我が子の迎えで幼稚園前ではいっぱいになっていたが、そんな時も一人で信号を渡り、車道を20分程歩き帰る事も多かった。そんな幼稚園からの帰り道、バイクにのった男にバイクに乗るように声をかけられることや、家に帰りついた時に誰も家にはいないのに、コンロには沸騰したお湯を知らせるポットが白い湯気を台所中に巻き上げながら、ヒューヒューなり続けていた。幼稚園の私は、一人強烈な恐怖に駆られ、火事だ火事だと祖母宅に駆け込んだ記憶は今でも強烈な体験だ。その後の親からの説明やフォローの声かけ等は全く受けていないのでますますだろう。

私が幼少期から母は私をよく叩いた。事があるたびに叩いた。自分が悪い事をしてなくても親をイライラさせると叩かれた。なぜ叩かれるのかがいつも不思議だった。

小学校入学と同時に家族の目は、成績表というものに向けられた。いい成績、どこの学校に行くか、近所の子より優れているかという事は、特に父方の家族にとっては大事であり、また、母もいい学校に行く事が良いとしていた。彼らの全てだったであろう。

 容赦なく浴びせられた言葉の数々。。。
いい学校に進学してくれなければ、職場や近所で恥をかかされる。(外も歩けないじゃないか!)
母親のようなバカおんなにはなるんじゃない。
お前はバカなんだから、普通の人の3倍しないと普通にはなれないぞ。
負け組になれば人生終わりだ。
お前はタクシーの運転手やデパートの店員なんかの負け組の仕事をする気か。

上記の言葉を分析すると、いかにそれが大事で、その理由が私自身のためというより大人自身の見栄や外面の為に使われていたかがわかる。
父親は、毎日酒を飲み、酔っぱらっていた。一日たりとも飲まない日はこのかたみた事がない。私が幼少の頃より行った先のスナックやキャバレー系のマッチやライターは家中に溢れかえっていた。

酔っぱらっては、私を怒鳴り、脅した。恐怖のあまり何も言うことは出来ない。ただ、「はい」とだけ返事をした。
家でテレビをみたりというリラックスできる時間は私には許されていなかった。
部屋に拷問のように閉じこもさされ、勉強をしているかどうかを監視されていた。恐怖で、父が寝るまで就寝につくことはできなかったし、そんな所を見つかれば怖い事が起きていただろう。部屋からでて家ではち会わせることすら恐怖を感じていたため、トイレに行くのさえ我慢した。時に我慢しきれない時は部屋にあったビニール袋に用を足した。それでも、酔っぱらいに怒鳴りまくられることに比べれば苦痛でもなんでもなかった。部屋に監禁状態となり、家の物音に気を配り、常にイラクの戦場並みの恐怖の中で耐えしのいだ。

続く・・・