いつも、このブログを読んで頂き、有難うございます。

我ながら、このブログの中身がだんだん何でもアリになって来ているのを、皆さんどんなふうに思って読んでいるのだろうかと危機感というよりも期待感を感じながら書いています(笑)。


少し間隔があきましたね。前回は多少歴史が前後しましたが、日本プロレスが全盛期のガリバーの時に、東京プロレスや国際プロレスという新規参入が起きて、同じ土俵では戦えないと言う事で、ビル・ロビンソンやモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)など、新しい商品バラエティと品ぞろえで挑んできたという話をしました。今日は、その後の新しいプロレス市場と変化するファンへの対応について書きます。


日本プロレスと、国際プロレスの戦略が大きく違うのは日本プロレスには当時、ジャイアント馬場・アントニオ猪木・坂口征二という日本人のスターがいましたし、それぞれ違う持ち味を出しつつが外国人レスラーには負けない強さを持っていました


一方、国際プロレスは豊登・グレート草津・サンダー杉山・ラッシャー木村が日本人レスラーの主力で、いずれも外国人レスラーに簡単に負けてしまうことが有りました。それでも、既述の通り、外国人レスラーなどの品ぞろえで違いを見せながら、なんとか頑張っていました


ところが大きな事件が発生しました。日本プロレスからアントニオ猪木が脱退し、新日本プロレスを設立したことです。当初、新日本プロレスはアントニオ猪木と若手レスラーだけの小規模団体でしたが、1年後坂口征二の引き抜きとテレビ朝日の中継を境に、「ストロングプロレス」という新たな市場を創造しました


タイガージェットシンの腕を折ったり、かなり激しい従来のショー的要素の高いプロレスという市場に新たな戦略でショービジネスとしてのプロレスとは少し違うものを導入して、「プロレスは八百長」というイメージのファンに対し、新たなニーズを顕在化させて行きました。


その象徴ともいえるのが、「猪木VSアリ戦」です。弱小団体でアメリカのプロレス団体からも有力レスラーを派遣して貰えない新日本プロレスが、当時世界で最も強いといわれていた「ムハメド・アリ」への挑戦状を送り、実現させてしまいました。「史上最悪の戦い」とも言われ、新日本プロレスは大赤字で存続の危機もありましたが、その後アントニオ猪木は極真空手やボクサー、柔道チャンピオンなどと「異種格闘技戦」というジャンルを確立し、従来のプロレスファンとは違ったファンを獲得していきました。


一方で、アントニオ猪木・坂口征二が抜けた日本プロレスは崩壊し、ジャイアント馬場が全日本プロレスを設立。ここでは、時代のエースとして元オリンピックアマレス代表のジャンボ鶴田を獲得し、馬場・鶴田のコンビに加え、国際プロレスの戦略の柱でもある外国人レスラーをベビーフェイス(善玉)に使う事も織り込み、外人レスラー=悪役というイメージから、新日本プロレスが呼べないような豪華な外国人レスラーを招へいするというものに変わっていきました。


その当時、高度成長期が一段落し安定成長期に入った頃で、日本人が豊かさを感じ始めていた時代です。かつて3種の神器と言われた「テレビ・冷蔵庫・洗濯機」は一般家庭のほとんどが保有し、結婚相手を選ぶ喩えとして「家付き、カー付き、ばばあ抜き」という言葉が流行っていた頃です。


その当時の日本人にとって、アメリカ人が敵というイメージではなくなってきており舶来品=高級品と言われるように外国製は高価格でも欲しいという時代に変わっていました。


そういう社会の変化にうまく適合した王道プロレスと言われた全日本プロレスと、同じ土俵で戦えるだけの外人レスラーを呼べない新日本プロレスは、日本人レスラー同士の戦いや異種格闘技戦というそれぞれの戦略の違いが明確になり、そのいずれでもない国際プロレスは崩壊していきました。


その後は、「全日・新日戦争」と言われつつも共存共栄していましたが、レスラーの引き抜き合戦や新日本プロレスの内紛などにより、UWF誕生。前田日明、佐山サトル(元タイガーマスク)による真剣勝負を前面に出した、新しい市場が生まれ始めました

その新しい市場は、言わばニッチ産業でありテレビの中継はもちろんされることもなく、すぐに崩壊しましたがその残党が新日本プロレスに返り咲き、テレビで取り上げられることにより、プロレスの格闘技化が進んでいきました。この時の最大の功労者は、「古館伊知郎」です。彼の存在なくして当時圧倒的な人気を誇ったプロレスは成り立たなかったと言っても過言ではないでしょう。


古館伊知郎氏は、その独特の実況中継でその後のスポーツ中継アナウンサーのスタイルを変えていき、先駆者である彼を模倣したアナウンサーも次々に出てきましたが、彼を超えることはできませんでした。その点では、古館伊知郎は新しいアナウンススタイルという市場を創造した功労者と言えます。そして、圧倒的な商品力の高さを評価されフリーとなり、今の活躍に至っています。


その後、プロレス界はジャンボ鶴田の急死、アントニオ猪木の引退、ジャイアント馬場の死去などにより、離合集散を繰り返し、異種格闘技を行う団体(K1・プライドなど)や、大仁田厚の究極のショービジネスプロレス、従来からのスタイルのプロレスと別れて行き、いずれも一般大衆の求めるスポーツ中継ではなくなっていきました


これは、今の流行りの言葉で言えば「選択と集中」が十分にできなかったからです。一時、K1などの試合に新日本などの現役レスラーが挑んで歯が立たないと言う事などもあり、「プロレス=最強」という神話が崩れるとともに、真剣勝負的戦いを行う団体では、連戦が行えず興業が成り立たなくなりました。その後バブル崩壊により、テレビ局も巨額を格闘技戦に投資することが出来なくなり、プロレスをはじめとした格闘技中継は衰退期に入って行きました。


今でも、プロレス団体はいくつも存在しますが、ゴールデンタイムで放送されることはなく、深夜での放送やスカパーなどの有料チャンネルでのものとなりました。


これはプロダクトライフサイクルで言えば、力道山が導入したアメリカ人を倒すというプロレスが、成長期にはいろんな日本人レスラーと多彩な外人レスラーが戦うというものとなり、成熟期には従来のプロレスを熟成したものと、異種格闘技戦という新しい商品を投入して市場を拡大しました。そこまでは良かったのですが、その後は「ジャイアント馬場」「アントニオ猪木」というレスラーとしても、プロデューサーとしても一流のカリスマがいなくなったことから、それを超えるものが出てこなかったことで衰退したとみています。


言わば、プロレスは昭和とともに日本を成長させてきた、製造業のようなものだともいえるのではないでしょうか?


この項これにて終ります。長文にお付き合いいただき、有難うございました。