読んだ論文の読後感が、頭の中で揺れているのでちょっと記録を。
読んだのは西山孝樹、藤田龍之、藤田宏之「井澤弥惣兵衛為永に関する既往研究と一次史料-紀州藩内の事績を中心として-」(『土木学会論文集D2(土木史)Vol78No1』)。2022年の論文です。
まず、大学でいわゆる“文献史学”と呼ばれる日本史をやった人の論文では、タイトルに“一次史料”という言葉は滅多に見ない。特に最近は。
思うに、新人の頃にゼミや勉強会などで怖い先輩たちから、「一次史料を使うのなんか当たり前でしょ」「一次史料も見てないのに何を言ってるの?」とバカにされるのを経験しているから。そんな言葉を使うとロクな目に合わないと、体感しているから使わない。実はこの論文が目に付いたのも、初めはこの部分が要因だった。〔大胆不敵だな…〕っと思った。
あと論文の導入部分で、「正しい歴史的評価」という言葉出て来るんだけど、〔それはって何?〕とも思った。
読んだ感想としては、“土木技術史としての正確な評価”っていう意味だろうと思うけど、言葉が強い。「歴史的評価」は見方によって変わるだろうに。
論文の主旨は、井澤弥惣兵衛を「“紀州流”治水・利水の祖」などと評価した既往研究への批判で、実はさいたま市博の「見沼」展が直接批判されていた。見に行ったし講演会も参加したけど、面白い展示だったけどね。
とはいえ土木系の雑誌に載った土木史の論文なので、関心の主体は土木技術にあるらしく、“紀州流”と呼ばれる土木工事で使われた技術は、“井澤弥惣兵衛発祥ではないでしょ”という批判で、紀州でおこなわれた治水事業は、井澤弥惣兵衛に先行して“大畑才蔵がいるんじゃないの?”という主張でした。
実際に間違ってはいない。
ただ、さいたま市博(や関東の自治体史)で言ってる“紀州流”と言うのは、土木技術の問題だけではなくて、「御普請役」と呼ばれる御家人を中心とした工事準備などの治水工事のシステムも含めて“紀州流”っと言っているから、ここでもう話がズレてきているんだよね。展示でも講演でも、大畑才蔵に触れてはいたので、別に無視をしたり見落としたりしていた訳でもないし。
そもそも“紀州流”という言葉は、それまで関東でおこなわれていた“関東流”の治水技術とは異なる手法ということで、対義語的に発生している言葉。関東郡代伊奈家の手法が“関東流”と呼ばれるのに対して、井澤弥惣兵衛が率いる「御普請役」が治水をおこなう手法が“紀州流”と呼ばれているので、徳川吉宗の将軍就任にあわせて幕府に出仕して新しい治水・利水工事を主導した紀州出身の井澤弥惣兵衛が、「“紀州流”治水・利水の祖」という評価を受けるのは仕方がないのではないかと私は思う。
で、“大畑才蔵に触れられてない”という批判ですが、関東で“紀州流”を扱う際には、関東に来ていない大畑に触れられないのは仕方がないのでは?
さて興味を惹かれた要因で、論文のタイトルに入っている「一次史料」という文言。この「一次史料」を論文では、『大畑才蔵』(大畑才蔵全集編さん委員会編)、『南紀徳川史』(南紀徳川史刊行会)、『徳川実紀』としているんだけど、全部編纂物じゃないですか?
まあ『大畑才蔵』は一次史料の翻刻ではあるんだろうけど、後述するけど『徳川実紀』は一考が必要な編纂物ですよ。
っていう風になってくると、頭の中がグラグラ揺れて、歴史学と土木史の前提の違いを痛感しました。言葉の定義が一致していない。
それでは論文の内容がおかしいのかと言えば、根本的な部分では間違っていないようにも思う。そもそも江戸幕府の治水・利水に関しては、「定法書」の検討や勘定奉行所の工事運営に関する研究が土木史の方面から進められている一方で、歴史学からはほとんど検証がなされていない。何を「一次史料」とするかは些細な問題で、二次史料だろうがなんだろうが利用した研究がないのが現状で、辞書類の記述に典拠とする史料が無いのはこの論文が批判する通りだ。
井澤弥惣兵衛の経歴は不明な点が多く、過去の顕彰事業で提示された経歴や行跡に、典拠となる一次史料が提示されていないモノが多いという指摘も正しい。この論文でも指摘されているように、紀州藩領内での土木工事には、ほとんど井澤弥惣兵衛の名前は出てこないので、井澤弥惣兵衛の技術的源流は明らかにされていないのだ。
しかし反対に、関東では井澤弥惣兵衛が工事の現場で活動している史料が多く残されているので、まったく紀州時代に土木技術を習得していないとも断定はできない(論文では触れられていなかったけど、埼玉や茨城の自治体史にいくらでもある)。大畑才蔵の記録に名前が出てこないというのであれば、関東で活動した「御普請役」の面々の名前も出てこないので、“大畑の記録に名前が無い”ことを技術伝承が無かった理由にすると、そもそも関東の“紀州流”の技術がどこから来たのかが不明になる。
この辺も歴史学の怠慢の部分で、関東平野での“紀州流”の受け入れに関しては、新田村の開発や技術結果の社会的な受け入れなど、農村部に関する検討は進められているけど、幕府側で実務を担当した「御普請役」などの役人や制度に関する実態的な研究がまったく進められていない。つまり論文の批判はやはり正しい。研究の不在が問題の原点であって、土木史の側も“まさか”検証なく書かれているとは思っていないのでは?
例えば「御普請役」についてですら、「普請役」か「御普請役」かの名称の確定すらされていない。さいたま市博の展示では、「御」は敬称として記されているだけなので役職名としては「普請役」と言っていた。個人的には、複数領主にまたがる河川改修などの“御普請”(単独の建物などを建設する“普請”とは異なり、領主よりも上位の権力者として幕府が執行する工事)をおこなう役職として、「御普請役」という役職名が正しいのではないかと思うんだけど、そんな議論すら存在しないから…。
国立公文書館の「従紀州御供人数書」によると、井澤弥惣兵衛の部下として江戸に出て来て御普請役として活動した人物は、村松兵衛、中川伊右衛門、大河内長兵衛、岩橋藤次郎、安田太左衛門(保田か?)、岡本文五郎、佐久間平兵衛、塩路善右衛門、保田久兵衛、(川嶋)仁左衛門、(大谷)文次郎、(永持か?)武兵衛、(秋月)理右衛門、(田村)三右衛門の14人。判明している限りでは、彼らの師弟、一族も御普請役として活動している。
例えば保田久兵衛は、兄の保田太左衛門が先行して御普請役となり、自身も兄に遅れて御普請役となった。久兵衛の子供は、次男の保田久左衛門、四男の保田定市も御普請役として活動している。(後に旗本に昇進した保田定市の『寛政重修諸家譜』の項目による)
また田村三右衛門は、長男を紀伊国に残して江戸に上り、次男の田村伊右衛門と四男の田村銀八郎が御普請役に就任している。伊右衛門は後に御普請役を離れてしまうが、伊右衛門の次男にあたる田村伊八郎が別家して御普請役として取り上げられている。(文京ふるさと歴史館『年報』14号による)
また御普請役ではないが、享和2年に御徒として先行して幕臣となっていた佐久間甚八の父佐久間郷右衛門は、支配勘定として東海道の河川の改修工事に携わっていた。(後に旗本に昇進した佐久間家の『寛政重修諸家譜』の項目による)
これらの“紀州流”の工事を現場で支えた御普請役の家系が、分家が認められなくなっていたことが指摘されている近世中期以降に、御家人(しかも抱入格)でありなが複数の子供が御普請役として登用されているという事実が、紀州出身の御普請役に何らかの高い価値が認められていたという証拠となるのではないか。そしてその価値は、「御普請役」の職務を勤める為に有用な技術にあったと考えるのが普通ではないか。『大畑才蔵』には、大畑家に伝えられた普請技術を記録した「定法書」が収録されているが、同様に御普請役を勤めた各家系にもそれぞれ「定法書」に類するマニュアルが伝えられていて、治水・利水の技術が継承されていたものと考えられる。
たぶんこれが“紀州流”の技術の正体なんだろうと思うけど、井澤弥惣兵衛も御普請役も実態が明らかにされていないので、「御普請役」を率いた井澤弥惣兵衛が「“紀州流”治水・利水の祖」とされているのが現状だろう。
そういえば論文の中で、飯沼新田の見地を筧播摩守が検地したことに注目して、井澤弥惣兵衛が開発したのではないかとの見解を示していたけど、開発担当者が検地担当者を兼ねると不正の温床になるので、別の人物、というか上司の勘定奉行が検地をしてるんじゃないかなぁ。
最後に、前に書いた『徳川実紀』の問題点ですが、編纂物であるということもそうだけど、『徳川実紀』は基本的に御家人に関する記述がされない書物である。この論文が表まで作って明らかにしてくれているんだけど、井澤弥惣兵衛も「勘定吟味格」という“旗本格の御家人”の間はほとんど『徳川実紀』に名前が見られず、布衣をゆるされて正式に旗本になってから、個別の事業にも名前が見られるようになっている。だから“『徳川実紀』に出てこないから関わっていない”と、言い切ることはできないんだよね。勿論、見沼や飯沼などの新田開発の地方の史料には、井澤弥惣兵衛の名前は頻出するので、関わっていなかったはずはないし。
と、論文を批判するのか、賛同しているのかが解らない長い文章を書いたけど、それぐらい頭がグラグラ揺れた論文だった。
※2024.12.25追記
「(永持か?)武兵衛」と書いたけど、花田武兵衛だった。