徳川4代将軍家綱の時代。
後に初の天文方となった安井算哲(岡田准一さん)が妻のえん(宮崎あおいさん)をはじめ、
さまざまな人に支えられ励まされて、日本独自の「暦」を作り上げる物語。
算哲は、将軍の前で碁打をすることを仕事にしていて、
算術や天文にのめりこむとすべてを忘れてしまうほどの「算術オタク」。
ある日、会津藩主保科正之(松本幸四郎さん)から、
「北極出地」という、
日本各地で北極星の高度を計り、
地点間の距離などを計測する一年以上もかかる使命を与えられます。
その任務の過程で算哲は、暦が二日近くもずれていることを教えられます。
このミッションの副頭取建部昌明(笹野隆史さん)は、
算哲に天文の真実を解き明かすことを託して病に倒れて亡くなります。
暦がずれているというのは、例えば、
冬至のはずなのに、夜が一番長くない、
夏至のはずなのに昼間が一番長くない、春分のはずなのに・・・ということ。
それがどうしたといいたいところですが、そのずれによって、
凶日か吉日か、方角は良いか、
現代人も当時の人たちも重要視している事実がひっくりかえってしまうわけですから、
日本人の価値観を大きくゆるがすことになるわけですね。
今使われている暦はローマで考案されたグレゴリオ暦。
当時は、中国で考案された宣明暦が使われていました。
平安時代から使われていた古い暦で、おそらく精度も悪かったのでしょう。
保科は日本独自の正確な暦を作るべく、算哲を総大将に任命します。
暦作りは、極め細やかな天体観測を何年もかかって行い、
月食や日食、冬至や夏至の時期を予測することなどで精度を上げていきます(多分)。
暦には利権が絡んでおり、
算哲たちは宣明暦を守ろうとする抵抗勢力からの物理的な攻撃も受け、命を落としそうになります。
算哲の師匠山崎闇斎(白井晃さん)は、算哲をかばって亡くなってしまいます。
そして数々の苦難を乗り越えてできたのが、「大和暦」。
朝廷に奏上するも、政治的につぶされます。
算哲は、志を同じくする公家や、これまで暦を作ってきた仲間たちとともに、一世一代の勝負に出ます。
宣明暦で計算すると皆既日食は起こらない日に、
大和暦の計算によって皆既日食が起こると予言し、もし起こらなければ、算哲は切腹すると。
結果は、ハッピーエンド。
大和暦は、朝廷に採用され、元号の名前を頂くことになります。
暦は当時、朝廷の専権事項であり、幕府が勝手に決めることは許されなかった。
そうであったから、当時の暦には莫大な利権が絡んでいた。
「利権」「既得権」については、ここ数年で嫌というほど見てきましたから、
とても興味があったのですが、その既得権についてはほとんど描写がありませんでした。
コンピューターがこれだけ普及した現代で言えば、
例えば暦の異なったコンピューターのOSが複数あった場合に、
シェアの高いOSにはとても大きな利権が絡むでしょう。
当時もそれに似たようなことがあったのでしょうか。
算哲を殺さなければいけなかったほどの利権や既得権とは何だったのか、
もう少し丁寧に描いてほしかったです。
ただし、感覚的に分かったことは、
誤った暦によって国民が真実から遠ざけられているということでした。
日や方角の吉凶だけではなく、豊作を祝う日であったり、
亡き先祖を敬う日であったりした日が、実はそうではなかったということは、
ごくありふれた当たり前の日常のようで、
人間の精神的基盤や文化を揺るがすことになるのですね。
「時」という人間の認識の一番の根源が誤っているということはとても重要なんだ。
それから、暦の作成という大事業を成し遂げるに当たっては、
家族をはじめとする多くの人の支えが必要不可欠であったこと。
算哲は、えんに出会い、支えられヒントを与えられ、大事業を成し遂げることができたのです。
えんとの出会いから結婚にいたるまではとてもロマンチックに描かれていました。
まるで七夕のようなのですよ。
天体の観測には星の運行の都合上、数年、数十年単位での長い期間がかかります。
算哲は、この観測が終わって使命を全うするまでここで待っていてくれ、とえんに頼みます。
一度目の暦の事業は失敗に終わりますが、
再度挑戦する際には、えんは、「今度は私がそばで見守ってあげます」と算哲と結婚し、
算哲の観測の助手となり、かげながら支えていきます。
また、家族以外の支えにも算哲は恵まれました。
友人である安藤有益(渡辺大さん)。囲碁のライバルである本因坊道策(横山裕さん)。
北極出地の頭取であった伊藤重孝(岸部一徳さん)。
算哲の最後のチャンスを支えた水戸光圀(中井貴一さん)。
そして観測に携わった多くの仲間(徳井優さん他)。
まあ、面白い良い映画だったとは思うのですが、何となく、物足りなさを感じました。なぜだろう。
最初は、「暦がずれてしまっていること」という事実に強烈な興味を惹かれました。
それをどうやって直していくのか期待したのです。
でも、それが、既存の暦同士の競争として行われたり(この競争には負けてしまう)、
最後の大勝負も民衆の賭けの対象になったり、
「暦の修正」という科学的興味をそそる試みが、
何となく矮小化されて描かれているような気がしたからかなあ。
それはともかく、宮崎あおいさんの魅力には、僕のレビューなど吹き飛んでしまうのです。
「わが母の記」で感じた魅力に勝るとも劣らないものを感じました。
ファンのひいき目もありますが、宮崎さんの魅力にはさらに磨きがかかっているように思えました。