天海　(92)

　秦末の名将・章邯は、項羽率いる楚軍と鉅鹿で死闘を演じていた。二世皇帝・胡亥は、宦官・張高に遮られ、緊迫した戦況を知らず、しばしば章邯を叱責した。追い詰められた章邯は、戦況報告のため副将・司馬欣を首都・咸陽に派遣したのである。

　事実が露見することを恐れた張高は、これを捕縛しようとした。危うく難を逃れた司馬欣は、急ぎ鉅鹿に戻ると章邯に降伏を勧めたのである。

　章邯が降伏すると、項羽はこれを歓迎した。祖国のために戦い続けた章邯を高く評価し、雍王に任じたのである。ここに秦滅亡の運命は定まったのであった。後に、張高は不用となった胡亥を殺害した。

　晩年となっていた秀吉は、既に胡亥と変わらない。側近の言う事を鵜吞みにし、戦況を軽んじ、快い甘言ばかりを信じていたのだ。前線で戦う武将は自分達が評価されないのは、秀吉の周りにいる佞臣のためだ、と信じるようになった。豊臣政権の命運はここに極まったと言っていい。

　秀吉は兵糧等の防衛体制が整うと、九州衆6万4千人余りを在番として朝鮮に留置き、7万人の四国衆・中国衆は、順次帰国して、翌年以降の再派遣に備えるよう命じた。

　慶長3年（1598年）1月29日に帰国した秀秋に、秀吉は筑前国30万石から越前国北ノ庄15万石への減封を命じた。秀秋は義父・隆景の遺領を守れなかったのである。この減封により多くの有力家臣が秀秋のもとを離れたという。

　筑前国の旧小早川領は太閤蔵入地となり、三成が代官になった。当初、秀吉は秀秋の旧領を全て三成に加増しようとしたが、三成はこれを辞退したという。しかし、三成は名島城を与えられ、旧領を代官として支配することとなったのである。

　さて、ここで整理して考えてみよう。慶長の役で、再三苦難を味わってきた黒田長政がけん責を受け、蜂須賀家政は領国蟄居と蔵入地没収、小早川秀秋は減封のうえ越前に転封となった。

　一方で、国内にいた三成は名島城を得て筑前国の代官となり、諸将を讒言した義弟たちは豊後で新地の所領を得た。

　朝鮮に派遣され、辛酸を嘗めた諸将にとって、これを不公平と言わずして何とするであろう。文知派と武断派の対立は、結局のところ、秀吉のこの不当な処置によって作られたのである。

　慶長３年１月３日、家康は国家安寧を祈願するため石清水八幡宮に参詣した。

　しかし、この年の京都では、まだ松も取れぬうちに大きな地震があり、人々に不安が広がっていたのである。

　また、1月10日には秀吉から重大な発表があった。

　『陸奥国会津の蒲生秀行を下野国宇都宮に転封し、代わって越後国春日山の上杉景勝を封ずる。』

　秀行は92万石から18万石に大減封となった。景勝は越後国から会津に移封となり、佐渡国、庄内地方等を併せて120万石の大大名になったのである。

　秀行は家康の三女・振姫を娶ることを条件に会津の相続を許された経緯があった。しかし、家中の諍いを治めることが出来ず、減封処分となったという。一説には三成が徳川家と婚姻関係にある秀行を排除した、ともいう。いずれにせよ、秀行が宇都宮に来たという事実は、家康の家臣になったも同然であった。

上杉景勝

天海 (92)

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