天海　(64)

【講和の破綻】

　文禄４年（1595年）秋、三沢庄兵衛は、伍助を連れて京都に来ていた。昨年の京都は朝鮮における日本軍の連戦連勝に沸き立っていた。それがどうだろう。僅か１年余で、京都は暗く沈痛な雰囲気に包まれていた。誰もが口を閉ざし、何かに怯えているようであった。

　「京の人々は皆、憂鬱な心持の様ですね。」と伍助が言うと、

　「関白様の件で、心寒いのだ。誰も関白の謀叛など信じておるまいて。」と庄兵衛は答えた。

　「奉行衆は関白様の悪行を今さらのように、巷間に広めていて、殺生関白などと悪口を言いつのっているようです。何とも浅ましい事です。」

　「真実は誰にも分らないが、庶民にもひとつだけ分かることがある。それは太閤様にとって、関白様が邪魔になったということだ。だから殺した。これは下賤のものでも分かる。これでは人心が離れても無理がない。」と言った。

　京都の秋は紅葉が実に美しい。そして美しい紅葉はやがて落葉となり滅びゆく。庄兵衛は豊臣政権の行く末に、逃れ難い危うさを感じた。

　久しぶりに会う倫子は、すこぶるご機嫌斜めであった。普段は明るい女性であるが、与平次のことになると実に頑固である。

　「与平次が鞍馬寺を飛び出して、丹後の珠子のところに転がり込んだというのです。もう何を考えているのやら、弥平次様は書状ばかりで帰ってこないし、もう私は知りません。うちの男どもはどいつもこいつも勝手ばかりで…。」というと涙目になったので、庄兵衛は必死で宥める。

　「途中で丹後にお寄りして、お話を聞いてみます。何にせよ、母君に説明するよう申し継ますので、ご安心くだされ。」

　京都の用事を済ませている間に、伍助には、丹後に赴いてもらう。何せ珠子は忠興公の正室である。段取りが必要なのだ。

　庄兵衛は京都の公卿三条西家を訪れた。ここで養育されていたお福も、もう16歳になっていたのである。

　「私は伯父の稲葉兵庫（重通）様の養女となり、稲葉福となりました。この度、ご縁があり、丹波の小早川中納言様のご家臣である稲葉内匠頭（正成）の継室として嫁ぐことになりました。ご家臣と申しても5万石を領するご家老であり、願ってもない良縁かと思います。」と福は言う。

　「それは誠におめでとうございます。この庄兵衛、心からお祝い申し上げます。」と言ったが、福の心根は分からない。しかし賢い子であるから、最後は自分で決めたのであろう。

　稲葉正成は林政秀の子で、稲葉重通（一鉄の庶長子）の婿養子となった。しかし重通の娘が早世したため、福を養女に迎え、継室としたのである。

　庄兵衛は気が進まぬまま丹後に向かった。丹後の宮津城に赴くのは本能寺の変があった天正10年（1582年）以来である。あの時は西国に向けて宮津港で大量の兵糧を船積みしていた。あれから13年が過ぎたのである。

　宮津城は光秀の縄張りで作られた。建築には弥平次も関わっていて、明智一族にとっては所縁のある城なのだ。取次に付き添われ庄兵衛は対面の間に通された。

　「庄兵衛、よく来て下さりました。お変わりなく何よりです。」と珠子は、満面の笑みで迎えた。

　「与平次の件ですね。姉上から何度も書状を頂きました。」というとカラカラと笑った。

　明智一族は美形が多い。倫子も美しいが、珠子はまた格別である。幼少の頃から知っている庄兵衛にしても、近づきがたい気品があった。本能寺の変の後、離縁のうえ幽閉されるなど、何かと苦労も多かったのであろうが、その若々しい美貌には衰えが見えない。

　「お父上が是非ともお会いしたいと、奥の茶室でお待ちです。今、ご案内させますね。」というと側のお女中に指示を出した。

　（あぁ、やっぱり。）と思うと、庄兵衛は力なく奥の間に向かった。

　そこには細川幽斎が待っていたのである。

稲葉正成