明智秀満　(82)

「信長公記」

　『仰も、此の天龍は、甲州・信州大河集まりて、流れ出でたる大河、滝下り滝鳴りて、川の面寒、渺々として、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず。上古よりの初めなり、国中の人数を以て、大綱数百筋引きはへて、舟数を寄させられ、御馬を渡さるべきためなれば、生便敷丈夫に、殊に結構に懸けられたり。川の面、前後に堅く番を居え置き、奉行人粉骨申すばかりなし。此の橋ばかりの造作なれども、幾何の事に侯。国々遠国まで道を作らせ、江川には舟橋を仰せ付けられ、路辺に御警護を申しつけられ、御泊御泊の御屋形御屋形立て置かれ、又、路道の辻々に隙間なく、御茶屋、御厩、夫々、生便敷、結構に相構へられ、御膳御進上の御用意、京都境へ人をのぼせられ、諸国にて珍奇を調え、御崇敬斜ならず。』

　藤枝を過ぎると、まず瀬戸川で一献傾ける。厳寒であった２月の信濃・甲斐とは打って変わって、４月の駿河は温かく陽光が眩しい。徳川家を挙げての持て成しに鬼のような織田の諸将の顔も綻ぶ。

　「これは、これは、日向守殿、宴席では、なかなかお目に掛かれず、ようやくお近くに罷り越せました。」と驚いたことに家康がすぐ側まで来ていた。

　「これは恐れ多いことです。少将様、お呼びいただければ、こちらからお伺いいたしましたものを。」と光秀は畏まる。

　「いやいや、日向守殿とは金ヶ崎以来の仲でござる。そう畏まらずとも良いではないですか。御酒の方は余り得手ではないと聞いておりますが…。」と家康は丸い顔を益々丸くして酌をする。

　「お恥ずかしい事ですが、生来、酒席は苦手でお酒も嗜む程度です。飲むと直ぐに酔って赤くなるので金柑等と言われております。」と珍しく光秀も冗談を言う。

　「キ、キンカンと申されましたか。それは、また、実に面白い。」と言うと家康と光秀は呵々と笑った。

　その夜は、懸川に宿をとった。

　「家康が、近づいてきたようだな。」と信長は言う。

　「はい、オレは気づいているぞ、と言いたいのでしょう。」と光秀は答える。

　「それで、何か良い策を思いついたか。」と信長は微かに笑った。

　「はい、この様な策は如何でしょうか。連日、これだけの豪勢な接待を受けたのであるから、当方としても安土で是非、徳川様をお持て成ししたい、と申し出ます。」と光秀は微笑んだ。

　「安土に誘き寄せるというか。しかし、家康は慎重ゆえ、恐らく遠慮して来ぬであろう。」と信長は言う。

　「そこは駿河拝領のお礼も兼ねて、と付け加えれば、さすがに“お礼に行けぬ”とは申し難いでしょう。こちらも諸将が接待を受けておりますので、徳川様にも重臣をお連れいただきましょう。」と光秀は言った。

　「ふむ、重臣共々か…。あい、分かった、少し考えてみよう。」と信長は答えを保留した。

　翌日早朝、懸川を出て、新造の御殿で一献傾けると、信長一行の眼下に大天竜が現れたのである。海かと見紛うほどの大河に一同は固唾を飲んだ。さしもの大淀も大天龍には敵わない。

　家康はここで一大イベントを企画していた。この大河に舟橋をかけたのである。数百の大綱を引き寄せ船を繋げ、馬が通れるほどの橋を架けてみせたのであった。織田の諸将はその見事な出来栄えに拍手喝采である。

　信長は「やりおるわい。」と苦笑した。

　「俺たちは橋を渡れるが、お前たちはこれができるのか、と言っているのでしょうな。」と秀満が苦々しく言う。

　「ああ、正面切って戦う相手ではない、という事だ。」と光秀は言った。

明智秀満 (82)

明智秀満　(82)