大学を出て社会に出て。
自分が思っていた世界と何かが違うと感じた。
何がどうというと言われるとそれは漠然としすぎてて言葉に出来ない。
ただの我儘だと言われればそれまでだ。
やりたいことが有る訳でもないのならとりあえず働いてなんとなく日常を過ごすのも悪い事ではないはずなのに。
数年前に読んで大好きだった本の背表紙を書店で見かけて、いてもたってもいられなくなった。
このまま流されて、気づけばそれが日常になって、その生活を好きになれるのならそれもいいのだろうけれど。
このまま自分が過ごす時間が正しいのか自問を繰り返すくらいならいっそリセットしてしまおうと思った。
その後にこれが正しいと思えたのならそれでいい。
会社を辞めて、アパートを引き払った。
何かが見つかるまで旅に出ることにした。
そんな中で出会った人達はほとんどの人が国籍も性別も関係なく親切だった。
そうしてやりたいことを見付けた。
そろそろ旅は終わる。
まずは自分の目標のために働くこと。
以前と違って目標があるのならどんな仕事だとしても苦ではないような気がする。
今回宿泊を決めたゲストハウスはオープンスペースに天井まで届きそうな書架が設置されている。
宿泊した人たちが寄贈したという本が綺麗に並べられ、母国語の本も勿論その中にあった。
観光地という訳でもないらしく、さらにオフシーズンという事もあってか自分以外の客らしき姿は見当たらない。
背表紙を辿ってこの旅の切っ掛けになった本を見付けた。
母国語のそれを手にしてカウンターに座るとオーナーが
「コーヒーと紅茶どちらがいいですか?サービスですから」
と笑顔で言われて紅茶をとお願いすると大き目のマグカップに注がれた紅茶を置いてくれた。
本を読むことにいつの間にか集中していたらしく、紅茶も冷めた頃。
耳に心地いいキーボートを叩く音。
ソファー席で長い足を組んで、その上に置かれたノートパソコンを叩いている男性は自分と同じアジア系の青年だ。
少し長めの前髪に無精髭。
ともすれば清潔感の欠片もなさそうに見えがちな風貌もしっかりした顔立ちとスタイルの良さ、清潔感のある服装のお陰で相殺されている。
キーボードの音が止まるとその人は大きく伸びをしてこちらに視線を向けると手にしていた本を見て
「韓国の人?」
と聞き馴染みのある言語で話しかけてくる。
「貴方も?」
満面の笑みで立ち上がったその人は「久しぶりに韓国の言葉を聞いた!」と遠慮なしに隣に腰かけた。
「…好きなの?」
頬杖をついて首を傾げながら手にしていた本を指でトントンと叩かれる。
「ええ。好きだったんです」
「過去形かよ」
「好きだったのに、新刊が出ても全然気づかなくなってたんですよね…」
「じゃあ現在進行形か」
「そうかも」
「はぁぁあああ?好きなのか嫌いなのかはっきりしろよ」
なんだ、この人。
「好きですよ」
「好きなんだな!?」
「ええ」
「よし!」
本当になんなんだこの人。
「奢ってやるからメシ付き合え。俺が奢るとか滅多にないから感謝しろ」
そんな簡単に恩を売られるなら結構です、と言ってやろうかと思った途端腕を引っ張られた。
「レッツゴー!」
なんなんだぁぁぁぁ、この人は!!
結局あのゲストハウスに数日滞在している間に一番美味かったからと居酒屋に連れていかれた。
確かに美味い。
地酒だと勧められた日本酒も申し分ない。
そして何故か可笑しなテンションの知り合ったばかりのこの人、キム・シニョクのペースに巻き込まて自分のこともすっかり話してしまった。
困ったことに「何だこの人は」という多少の不信感はあるものの奇妙な安心感もある。
何を話しても否定はされないのだ。
唯一否定されるのは自分を卑下する言葉を口にした時だけで。
居心地がいい。
「じゃあ、キュヒョナはもう韓国戻るのか?」
「ええ。見つけたから。だからまずは仕事を見つけて資金を稼ぎます」
ゲストハウスをオープンしたいのだという言葉にそんな夢みたいなことをと笑いもせずに聞いていたシニョクは手にしていたスマホをタップして。
「じゃあ、とりあえずゲストハウスのスタッフとして働いてみたらどうだ?何なら紹介してやろうか?」
「…シニョクさんって何者なんですか」
「ただの物書き」
「はぁ」
「そこで学んでいざって時には融資してやるよ。ただし一部屋は永久に俺の物ってことで」
「そんな簡単に…」
「簡単じゃない。キュヒョナが本気ならそうしろってこと。融資も本気。俺のモットーは人生楽しむこと。今それが楽しいと思ったからそうするだけだ」
「…だって」
「何?」
「…そもそもシニョクさんお金持ってそうじゃないし」
失礼とも思えるその言葉にシニョクは豪快に笑う。
「正直でいいな」
「ありがとうございます」
お猪口の中身を空けると髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜられた。
次の日。
オープンスペースに行くとシニョクが書架の前で柔らかい表情を浮かべて愛おしそうに本の表紙を撫でている。
キュヒョンの姿に気づくと「おはよう」と挨拶を寄越した。
シニョクの隣に立ってその本を覗き見る。
優しい色合いの絵本。
「絵本?」
「置いて行こうと思って」
「え!? シニョクさんのなの!?」
「悪いか」
「イメージじゃない」
「正直な奴だな本当に」
そう言いながら本棚に収めて、名残惜しそうに背表紙を撫でた。
「そんなに好きなら持っていればいいのに」
「…好きだった、かな」
そう言って微笑んだあと神妙な顔つきで名前を呼ばれて何かを投げて寄越す。
思わず掴んだそれを確認して顔が引きつった。
「うわぁぁぁぁあああああ!!」
慌てて投げ捨てたそれがシニョクの顔に命中するにも拘わらず爆笑している。
この人本当になんなんだ!
キュヒョンが投げたのは蜘蛛の形のゴム人形。
指を差してまで笑うか、普通。
「こうなったらアンタの財産根こそぎ奪って豪華なゲストハウス作ってやる!!」
どうせ大して金なんて持ってないんだろうけど。
差し出された手を取って引っ張り上げられるとそのままハグされた。
「待ってる」
そうして後日。
シニョクの正体が自分の好きな作家だったことを知ったキュヒョンはあんぐりと口を開けた。
「詐欺だ」
「あれだけメディアを騒がせたんだから気が付けよ。前髪降ろして髭伸ばしたぐらいで気づかない方が悪いんだろ」
「で。そんな大作家先生がなんでこんなところに居るんですか」
キュヒョンが働くことになったゲストハウスの個室を年間契約したシニョクが笑う。
「キュヒョナに会いたいから?」
「またふざけたことを…」
「色んな話が聴けて楽しそうだろ?」
確かにオープンスペースに居れば色んな人と話も出来るだろうし、何よりなんとなくこの人に一人のイメージはない。
「僕に融資するために頑張ってください」
「二人の愛の巣つくろうな」
「言い方!! 誤解を招くような言い方やめろーっ!!」
ブチブチ文句を言いながら受付に向かうキュヒョンを見送ってシニョクは呟く。
「そろそろ俺も幸せになっていいと思うんだけどなぁ」