会社の近くのチェーン店のカフェに向かうかと思っていたらシウォンはそちらとは逆方向に足を向ける。
5分程の場所にレンガ壁に蔦が這った小さな店の年季の入った店にキュヒョンを案内した。
重そうなドアを開けると、入口からは想像つかないゆったりとした店内は臙脂の落ち着いた絨毯に飴色に光るシックなテーブルと座り心地のよさげな椅子。奥にはソファー席もある。
カウンターの向こうでこちらに穏やかな笑顔を寄越した店主らしき人物が「お好きなお席にどうぞ」と声をかけてくれた。
「近くにこんなところがあるなんて知らなかった」
「いい感じでしょ?マスターが紅茶好きで色んな茶葉をそろえてるからキュヒョンさん好きだと思うんだけど」
コーヒーは全く飲めない訳ではないけれどできれば違うものの方がいい。
つまりキュヒョンはコーヒーよりは紅茶派だ。
そんな話は同じ部屋で仕事をしているジョンウンくらいにしか話したことはないはずで、キュヒョンが訝しい顔をしたのをシウォンは見過ごさなかった。
「今日チームの部屋行った時にコーヒーサーバー置いてあったけど、キュヒョンさんはよく休憩室の自販機使ってるみたいだから紅茶の方が好きなんじゃないかと思ったんだけど…違ってた?」
「違わないです。休憩室とか…会ったことあります?」
「ん。何回かね」
キュヒョンには全く記憶が無くて少しだけ申し訳ない気持ちになった。
記憶力は良いほうだと思っていたのに。
ウエイターからメニューを受け取ったシウォンがそれをキュヒョンに寄越す。
「シウォンさんお先にどうぞ」
「大丈夫。ここに来たらメニュー決まってるから」
ね?と問われたウエイターがにこやかに頷くのを見てメニューを広げると確かに色んな種類の茶葉がある。
「シウォンさん、僕、紅茶の方が好きですけど茶葉に詳しく無いんですよ…わかる名前なんて知れてるんですが」
「あー。じゃあマスターに聞いてみて。すっっごく色々教えてくれるよ」
シウォンが小さく笑うとウエイターも同じように笑った。
「お時間あればどうぞ。でもマスターの目利きは素晴らしいですよ」
なるほどこだわりがあるってことはそれだけの情報量をもっているってことか。
「それはまたゆっくりと。今日はスッキリとしたお茶をストレートでおまかせします」
メニューを受け取って一礼したウエイターがカウンタに戻ると、マスターはキュヒョンの方を見て頷くと飾り棚に並ぶ綺麗な缶を手に取った。
「落ち着きますね、ここ」
「うん。穴場でしょ?」
ベンチャー企業が多いこの辺りでは昔からの店舗よりお洒落なカフェの方が好まれるのもなんとなく分からなくはない。
味わうことより、どれだけお洒落な写真が撮れるかのほうが重要な人だって居るのだ。
「で。設定とかは社長から聞いてるんだけど。今の俺たちのままでいいってことだよね?」
主役は商社の新人サラリーマン、相手は取引先の重役だったりと違いはあるがキュヒョンには会社の同僚と言う設定が割り当てられた。
とりあえず一番とっつきやすそうだろうというのが理由だ。
「そうですね。まぁ、設定とかはあまり気にしなくても大丈夫です。その辺りは全然書けますから。シナリオ書きなんでそういうのは得意なんですよ」
「そっか。じゃあ別に特別なことしなくてもいいし、書けるんじゃないの?」
「書けます。なんの変哲もない恋愛小説でいいのなら。でもそれは望まれないでしょ?」
「…よく判らないんだけど」
キュヒョンも上手く伝える術がない。
こめかみを押さえて眉をよせる。
「んー…なんていうか…僕が書くと多分同性じやなくてもいいシナリオなら書けるんです。そのまま異性にはめても全く問題ないシナリオ。だから予想できうるやり取りや選択のセリフしか書けないんですよ。それでもいいって人もいるでしょうけど、それじゃあ駄目ってことは解るっていうか…絶対違うじゃないですか」
「あぁ、なるほど。でもそんなものじゃないの?」
「そんなものなのかもしれませんけど、それでいいのかどうかも想像がつかないんです」
「真面目だなぁ」
「確かに不真面目なつもりはないですけど」
膝に肘を付いて組んだ指の上に顎を乗せたシウォンが神妙な顔をする。
なんだかいちいち絵になる人だなと思いながらキュヒョンは背もたれに身体を預けた。
体重を預かってくれるクッションの沈み方が絶妙で思わずため息が漏れる。
「じゃあキュヒョンさんが攻略される側の方が書きやすいよね」
「え?」
「だって君が俺を攻略しようとして何か言動を起こしたとして毎回どこが良くてどこが良くないかなんて聞いてられないでしょ?こっちの言動を判断するだけの方が楽だろうしいちいち俺に報告もいらないし」
「そう、です…ね?」
たしかに言う通りなのかもしれないが、それ、あっさり受け入れられるものでもないだろうに。
やっぱりちょっと変わってる人認識していいんだろうか。
「抵抗ないですか?」
「そりゃあ今までの経験上、対女性のスキルしか無いけど。そんなに違うものでもないでしょ。まぁ、判断はキュヒョンさんまかせだしね」
黙っていればそこらのイケメン俳優と並ぶ、もしくはトップに立ちそうなその顔がひとたび笑うとえらく人好きする感じになって、この顔は「くまたろう」だなと思う。
タイミングよく運ばれてきたティーカップがかちゃりと心地いいくらいの小さな音を立てて前に置かれた。
「お待たせいたしました。こちらジャワのストレートです」
オレンジに近い明るい色合いの紅茶。その向こうは…。
「ブレンドとホットケーキです」
イメージじゃないんですけど!?
心の中の叫びを押し込んでキュヒョンは紅茶を口にした。
香りはしっかりとしているのに渋みや苦みが少ない。
味わいは緑茶に近い爽やかさがある。
ちらりとシウォンを見るとじっとパンケーキを見詰めていて、同じように視線を落とす。
均一の焼き色のケーキの熱でゆっくりと溶けるバターが緩やかに滑り始めたところに添えられたハチミツのピッチャーを傾ける。
トロリと落ちていく蜜がバターと一緒に皿に滑り落ちたところで満足そうにピッチャーを置いて、コーヒーを口にした。
「ここのホットケーキね、銅板で焼いてて美味しいんだ」
流行りのパンケーキみたいにホイップクリームやフルーツが飾り付けられているわけでもなく、シンプルなホットケーキだけが乗っただけの皿なのに食欲を刺激されるビジュアルではある。
ナイフで切ったケーキを口に入れて咀嚼する。
飲み込んだ後に幸せオーラ全開のシウォンを見て思わず笑ってしまった。
「何?」
「いや、凄いイケメンがホットケーキ食べて蕩けてるのって女子の言うところのギャップ萌えって奴なのかなと思って」
「おぉ。イケメン認定されちゃったよ。キュヒョンさんは萌えない?」
「…萌え?とは違うけど…先輩が気を許してくれた瞬間みたいなのはちょっと嬉しいかもですね」
「そっか。じゃあそういう感じで書いてみればいいんじゃない?」
なんだかストンと落とし込まれたようなその言葉に今まで難しく考えすぎてたのかもしれないなと納得させられる。
「…じゃあ、シウォンさん僕を堕としにかかってくださいね」
「強敵そうだけど頑張るよ」
「一ついい知らせがあります」
「何?」
「僕は面食いなので多少性格に問題あってもシウォンさんの顔は合格点超えです」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたシウォンに笑っていると、仕返しとばかりに口にホットケーキのかけらを突っ込まれた。
「…っ!うっまっ!」
「でしょ?」
自分が作ったかのようなドヤ顔でシウォンが微笑む。
外はさっくり、中はふわふわでしみ込んだバターと蜂蜜が噛むたびにジュワっと口に広がる。
旨味を流し込むのはもったいないなと思いつつも紅茶を口にして、またキュヒョンは唸った。
「うっっっまっ…!」
紅茶までがさっきより美味しく感じる。
「それね。フードペアリングっていうんだってさ。味わいや香りが相性のよい食材同士の組み合わせっていうのがあるんだって。たまたまそのお茶にも合ってたんだろうけど、もっと会うお茶があるかも」
世の中知らない事はまだまだ多い。
結局キュヒョンはホットケーキと一緒にそれに合う紅茶をオーダーすることになってしまったのだ。