正気じゃない。
こんな場所に飛び込むキュヒョンも、それを追う自分も。
建物の脇をくぐり抜けて裏に曲がったキュヒョンを一瞬で見失う。
途端に身体中を襲う不安。
不安は恐怖になる。
無事なのか?
自分のことよりも彼の存在が目の前にない事がなにより不安だった。
「キュヒョン!」
「ここです」
後ろから声がして振り返ると、自分の上着を抱えたキュヒョンが立っていた。
「何やってるんだ!?気でも触れたのか!?」
「本気で言ってます?だったらそのままお返ししますけど」
キュヒョンが掠れた声でそう言った途端。
炎があがる音がする。
随分と炎が近づいている。
屋内に飛び込んだわけではないのでまだ炎からも離れていることと、煙を吸わずに済んでいることが幸いだ。
「熱いと思った」
「悠長なこと言ってる場合じゃないよ。行くぞ」
体を丸めるようにして建物の横をすり抜けて、走り出たところに緊急車両が到着した。
消防隊員の指示する声。
周りに集まってきた人達のざわめき。
救急隊や警察官の声。
そういったものに酷く安心した。
少し離れた場所で座り込むと大きく息を吸う。
「全く、なんだってあんな無茶したんだ」
「あ」
キュヒョンは思い出したとばかりに慌てて抱えていたジャケットを広げる。
そして安心したように微笑んだ。
そこには一匹の猫。
おそるおそる顔を出したかと思えばジャケットから飛び出すと一目散に近くの家の垣根の中に消えて行った。
「礼もなしか」
「猫ですしね」
「それにしても…」
「すぐに戻るっていったのに…。さすがに無理ならやりませんよ。僕だって自分が大事ですから。…あの裏手に住み着いてるのがいるのは知ってたんで近くにいってみるだけのつもりだったんです。でも微かにですけど聞こえたから」
「なにが?」
「声が。猫ってパニックになると動けなくなるんです。でも鳴いたから。助けられる運命だったんですよ」
俯いてペンダントを握る。
「よかった…」
ふいにキュヒョンの体が傾いで慌てて手を伸ばして肩を支える。
「大丈夫?」
「すいません…安心したら急に…」
手に伝わってくる微かな震え。
「怖かったなら、それは無理したってことじゃないの?」
「怖いとは違うんです…今は悲しいだけで…」
はっ、と短く息を吐いたキュヒョンは薄く笑って肩を支えるシウォンの手から離れて、顔をあげた。
「シウォンさんの方こそなんで来たんですか」
「キュヒョンが行くからだよ」
「だから、すぐに戻るって…」
堂々巡りになりそうな会話を止めたのは遠慮がちにかけられた声だ。
「あの…」
「はい?」
「向こうに居る人からお二人が火元に飛び込んだって聞いたんですが。お怪我はありませんか?」
救急隊員らしき男性にキュヒョンが返事をした。
「大丈夫です。横を通っただけで入ったわけじゃないんで怪我もしてませんよ」
二人を頭から足元まで流すように見た隊員は納得したように頷くと、何かあったら直ぐに病院に行くようにと言い残し現場に戻っていく。
「…とりあえず帰るか」
「はい。ところでシウォンさん」
「何?」
「ケーキ。どこにやっちゃったんですか?」
「あれ…?どこにいったんだろう…」
苦笑いすると、キュヒョンが困ったように首を傾げる。
「だから待っててくれればよかったのに」
「仕方ないよ。ところでキュヒョン何で嘘ついたの?」
「何がですか?」
自分の左手を指し示す。
気まずそうな顔をするところを見ると自覚はあるらしい。
「手の甲に引っ掻き傷があるよね」
「…火事とは関係ないから…それに何かと面倒だし…」
「あと、前髪。少し焦げてるんだけど?」
「なんか燃えた紙みたいなものが落ちてきて…」
ボソボソと言い訳を始める手を掴む。
「別に怒ってる訳じゃないから」
「わかってます」
「帰ったら手当てだな」
「…ケーキの方がよかったなぁ」
「もう一回コンビニ行く?」
「そこまでして食べたい訳じゃないですよ?」
「はい、はい。今度もっと美味しいケーキをご馳走するから、諦めて帰るよ」
「だから食べたい訳じゃないですって!子供扱いしないで下さいよ」
拗ね始めたキュヒョンに笑って、腕を掴んで引き上げる。
「帰ろう」
コクリと頷くキュヒョンの頭を撫でると、だから子供扱いしないで下さいよと苦笑いされる。
離れた場所から猫の声が聞こえてそちらに視線を向けると先程の猫がこちらの様子を伺うように見ていて。
キュヒョンに視線を戻すと、彼の口角が柔らかく上がった。
「お礼、言いに来たみたいですよ」
「うん。よかったね」
本当にみんな無事でよかった。
キュヒョンが無事でよかった。
こんな事は二度とごめんだ。
これも一連の不審火だというなら、早く犯人が捕まればいい。
心からそう思う。
掴んだままの腕を離せなくてそのままで歩き出すと不安そうに呼ばれた。
「あの、もう大丈夫なんで手を離して下さい」
「嫌なら離すけど」
「嫌とか、じゃなくて」
「離すとまた何かしでかしそうだ」
「あの…僕の不注意でシウォンさんまで危険なめに遇わせてすみません」
「謝ることじゃないから。それにキュヒョンが居なくなるのは、俺にとって重大なことなんだ」
そう。
重大なことなんだ。
この存在がなくなるのは。
この手を離したくない理由なんて、多分最初から気づいてた。
この世の中で特別な存在だ。
それが愛情や友情のどのカテゴリーにはまるのかは分からないけれど。
「鍵はちゃんとお渡ししますよ」
「そういう事じゃないんだけど」
自分にすら分からない感情を、どう伝えればいいのかわからない。
「もう鍵を見つけるのは重大な事じゃないっていうか…」
「え?…そう、ですか」
何故か傷ついたような顔をしたキュヒョンは、黙ったままで歩き出す。
実際この言葉がどれ程彼を傷つけていたか、この時シウォンには全く分からなかったのだ。