愛することにおいて、相手を理解し受け入れることは必須だ。

ところが、「受け入れる」と言いながら、自分勝手に相手を解釈していることがほとんどだろう。

相手の存在を捻じ曲げてまで自分を納得させようとするのは、理解ではない。

だから、愛ではない。

それは、自己を完全に防衛しながら、相手に何かを期待して近づくことだ。

つまり、それは自己愛なのだが・・・・・

自己愛とは、自分に対する愛ですらない。

愛とは似て非なるものだ。

愛はそれに伴う苦痛を恐れないが、自己愛は極度に苦痛を恐れる。

愛とはベクトルが真逆だ。



真に相手(それが自分自身のこともある)を受け入れるとは・・・・・

相手への関心を保ちつつも・・・・・

納得できないところ、理解不能なところを、「そのままにする」ことだ。


その状態を保って相手の傍にいることは、通常、苦痛を伴う。

長く保つのが難しい。

ほとんどの場合、相手からある種の「距離」を置くことになる。

距離の取り方は様々で、精神的なものだったり、物理的なものだったりする。

その中で、極力近づくこともあれば、極力離れることもある。

向かい合うこともあれば、はぐらかすこともある。

そうやって距離を測りつつ傍にいるのが、人と人との愛だ。



しかし、神を愛するには、距離を置いてはならない。

なぜなら、神に対しては、こちら側から距離を詰めることは、一切、できないからだ。

元々ある距離、どうにもならない距離を神の側から超えて、傍に来てくださった。

神とは、自分(たち)を完全に理解し、把握している存在だ。

「愛」そのものだ。

そこから敢えて離れるなら、もう後がない。

死ぬしかない。


「神を愛する」とは「生きる」ことの前提であって・・・・・

「『命』から離れないようにする」ことなのだ。



あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
(新共同訳聖書 旧約 申命記6:5)