人間は、神に対しては、完全に受け身である。

その意味では主体性を持たない。

神に対しては客体性しかない。



若い頃、よく「主体性を持て」と言われた。

Boxy個人が、というより、そういう風潮の時代だったのだろう。

確かに、他人の言いなりにならずに主体的に生きられたらと思う。


ただし、人の主体性には限界がある。

その限界を、人間関係の縛りとして感じている人は多いだろう。

また、その人特有の限界(能力、健康、等々)も、また、あるだろう。

それらを打ち破れるぐらい強い主体性にあこがれる。

あこがれながらも、しがらみの中で、思うように主体性を発揮できない自分・・・・・


聖書によれば・・・・・

人間の本分は、神に従うことだ。

それは、ただ主体性が無いだけなのか?

そうではない。

人間本来の客体性を取り戻すということだ。

それは、人間を縛っている諸々から自由になる、唯一の道でもある。

つまり・・・・・

神に対して客体であることが、人間の主体を確立させるのだ。


このことを、Boxyの造語で「主体的客体性」と、格好つけて言ってみた(笑

主体的客体性を持って生きる。

まず、イエス・キリストの生き方を、そんな言葉でとらえてみた。


ならば・・・・・

自分にとって、主体的客体性を発揮する生き方とは何か?


この問いへの応答に生きることは、いわゆる自分探しのようでいて、まったく違う。

神という絶対的主体に対して、常に客体であること。

神の前にひれ伏している自分でいること。

礼拝する自分でいること。

常に「私に従え!」と言ってくる理不尽な(笑)神に対して、「従います」とついていくこと。


そこでは、日々、何かしらのミッションとその遂行に必要な糧が欠かさず与えられる。

この連続を生きるところに「神の国」がある。


「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

イエスが2000年前に語った宣教の言葉だ。

ならば、すでに、ここは神の国。

与えられた「主体的客体性」を自覚しないかぎり・・・・・

主体的に生きることができない所に、私たちは立たされている。