今の時代の日本で生まれ・・・・・

公教育から与えられる知識で物事を考えていくだけだと・・・・・

世界の前提としての神の存在を認める人間は育たない。

世界を認識するには、とりあえず"科学的"でありさえすれば間違いない、と考えるようになる。


「科学」が元々持っていた意味は、神=創造主が被造世界に与えた法則を確かめ、聖書の世界観を実証することにあった。

人間の判断を一人歩きさせるようになった近代以降は、むしろ、科学自体が人間中心の世界観を示す宗教になっていった感がある。


日本で、神を信じるなどと言えば、非科学的な変人と一蹴されるのが当たり前になっている。

科学的か?非科学的か?

それが、常識人か、そうでないか、の分かれ目になる。

 
しかし、これは、科学を、その守備範囲を越えた世界認識の「原理」として、妄信している状態だ。

科学原理主義??

そんなふうに宗教化した"科学"は、宗教が扱ってきた分野を非科学的と切り捨てる。


たとえば、倫理的分野。

「善悪」を科学的に実証することはできない。

つまり、倫理は非科学的なので、必要なくなる。
 
科学を信じる?人々にとって、「善悪」とは、個々の主観の問題に過ぎない。

よって、どちらでもいいものになる。


実際には、宗教的背景を歴史的に持っている法が善悪の基準を示してはいる。

また、主観といいつつ、個々人が内に持っている宗教的なものによって善悪を判断してはいる。

だから、倫理そのものは無くなってはいない。

ところが・・・・・

少なくても、理屈の上では・・・・・

個々の主観を超えて通用する善悪の基準は必要なくなる。


中学生ぐらいになると、教師から善悪を諭されると・・・・・

「それってー、先生の主観じゃーん」と、言い放つようになる。

あれだ、あれ(笑

それが、大人になっても頭の一角を占めている。


そんな大人だらけの学級崩壊的?社会。

そこでは、結局、人間関係の中での力関係によって善悪が決定される。

早い話が、自分(たち)の主観を押しつける力の強い者が、その時々の善悪を決する。

元来、宗教的に決められていた善悪の基準も、邪魔になれば、力で退ける。

そういう力を持つ者を欲する大衆が、それを支える。
 

政治による法制などに、それが現れている。

パワーエリートたちの力の具現化としての国家や超国家的組織が、力に引き寄せられる人々を多数として従えて、法秩序を整備する・・・・・

人々の中から倫理的要求が出てくれば、それも力として利用していく。

民主主義的諸制度も、その力の支配構造の中にすっぽりと納められていく。


そうやって決まるのが、現代の善悪の基準だとすれば・・・・・

それはこの先、コロコロと、どうにでも変わっていくだろう。

"科学的"に言えば、それが"適者生存"であり、"進化"なのだろう。

聖書は、それを「空しい」と言っているが。


宗教(キリスト教)的分野・・・・

それは、科学によってオワコンにされた一分野ではない。

実は、より包括的なものだ。

すべての分野をその中に位置づけて、相互の関連と役割を統括して、さらに意味・価値を与える、最大にして最強の世界観。

いやいやいや、世界そのものをすっぽりと収めている超・世界観。

人間から観た世界観ではなく、創造主から観た世界観を示しているものなのだ。



 * 画像は、元々キリストのシンボルである魚のマークの中を「イエス」から「ダーウィン」に替え、進化を表す「足」を加えて、商標みたいに見せたもの。フリー画像にしては、なかなか意味深なデザイン。