人はどの段階で救われるのだろうか?
教会では、得てして、洗礼を受けることが、救われることと同一視される。
しかし、聖書にもどって見ていくと・・・・・
人は、イエスを救い主と信じて告白することで、救われる。
教会は、そのことを手続きを踏んで確認して、最終的には洗礼という儀式(典礼)で表す。
手続きと言うと形式的に聞こえるが、要は、その人の信仰告白を聞くこと。
当然、聞くことの中に、それが確かに信仰の告白なのかを確認することが含まれる。
それを、地上における天の機関としての教会は、神から託された役割として、行う。
その一連のプロセスを、その意味を含めて受け止めて、「救い」と見るのはよい。
しかし、「救い=洗礼(受洗)」と、ピンポイントに単純化すると、おかしなことも起こる。
どうしても、洗礼を授ける教会が救いを行う主体に位置してしまう。
そうなると、"神による"救いを表すことから逸脱する。
さらに洗礼の話を続けるより、いったん他の例を挙げて、合わせて考えてみたい。
礼拝で常に行われる説教。
これは「神の言葉」として語られる。
しかし、そこで語っている牧師自身が、神として崇められることはない(はずだ)。
聖書の言葉が、神の言葉として、牧師によって解き明かされている。
それは、教会の責任として行われる。
当然、説教で語られた言葉は、教会では、神の言葉として重んじられる。
そうすることで"神の"言葉を表しているわけで、牧師が神のように思われては本末転倒だ。
「神のように思われている牧師の言葉」ではダメで・・・・・
「人としての牧師が語り、教会が表す神の言葉」であるところに価値がある。
当然、そこには間違いが生じる余地がある。
聖書が正しく読み解かれていない場合。
聴く側が誤解する場合。
多かれ少なかれ、その両方が常に生じている。
気がついた時点で改めていくしかないことだ。
それも、常に神の言葉としての聖書が基準になることで、成り立つ。
話を「救い」にもどそう。
人はイエスを救い主と信じて告白することで救われる。
それを教会は自らの責任で確認して、洗礼という形で表す。
当然、その洗礼は、教会では、「神が行った救いの出来事」として重んじられる。
同時に、当然、そこには間違いが生じる余地がある。
教会が聖書を正しく理解できていない場合。
告白する側が誤解している場合。
多かれ少なかれ、その両方が常に生じている中で・・・・・
信仰告白が確認されて、洗礼が執行される。
しつこいようだが・・・・・
人はイエスを救い主と信じて告白することで救われる。
これは、もともとは、神との関係で起こったことである。
神がその人にイエスを信じる信仰を与えたことに基づいている、
従って、そもそも、見えないことである。
救われた者たちは、まず、神による救いが自分(たち)の身に起こったと信じつつ・・・・・
教会の中で、神の言葉である聖書を基準として、常に確認し続けることになる。
一般には、確認とは、疑いに基づくものだとされている。
確認している間は、常に疑っていることになる。
しかし、救われた者の中では・・・・・
違う。
確認とは、与えられた信仰、イエスを救い主と信じる信仰に基づく。
それは、疑いや不安から生じるものではあり得ない。
信頼から信頼へ、安心から安心へと導かれるものなのだ。
念のための追記
この記事に幼児洗礼を否定する意図はない。
幼児洗礼(と堅信礼)は、ここで記したことの応用として考えられる。
