「具体性のある言葉」「リアルな言葉」と聞けば・・・・・
観念的でない言葉のことか、と思われるだろうか。
しかし・・・・・
使っている言葉が、具体的か、観念的か、と・・・・・
言いたい内容が、具体的に伝わるか、伝わらないか、とは・・・・・
また違うだろう。
使っている言葉のほとんどが現実を直接指しているのに・・・・・
そのリアリティがさっぱり伝わってこないことがある。
観念的、抽象的な言葉ばかり並べているようでも・・・・・
その言葉を支えている現実が、文脈の中に息づいていることだってある。
昔から、「さわれるぐらいリアルな言葉」に憧れがあった。
憧れが強い分、自分自身から出る言葉には嫌悪感があった。
何を言っても書いても、空々しい、ウソくせー、と思っていた。
おかげで、コミュ障一歩手前で、思春期を過ごした。
まあ、大概の男子なんて、そんなもんかもしれないけどね(笑
言葉の具体性ということなら、傾向としては、女性が長けていると思う。
妻としゃべってても、そう思う。
まるで映像を見せられているような豊かなディティール。
その圧倒的情報量のせいで、時々、スキップさせたくなる(^^;;
話をもどしてと・・・・・
さて、美術の教師から公的生活をスタートしたBoxy。
教科が教科だから、語るにあたっては、はじめはコミュ障の延長なところがあった(^^;;
当然、教師の仕事は多岐にわたり、すぐに、そんなこと言ってられなくなり・・・・・・
まあ、いろいろあって・・・・・
「さわれるぐらいリアルな言葉」を語るのが使命、ともいうべき仕事に就くはめになった。
生来の傾向からは、逆方向に引っ張ってこられた感がある。
それこそ「手探り」で、これまでやってきたのだが・・・・・
この仕事、逆に、自分自身が「探られる」「触れられる」ものなんだ、と思うようになった。
つまり、「さわれるぐらいリアルな言葉」を語るより先に・・・・・
「さわれる命の言葉」であるイエス・キリストから、自分がリアルにさわられる必要があった。
言葉からさわられる、とは何のこっちゃ、と言われそうだ。
聖書が主体、自分が客体・・・・いろいろ言えるかもしれないが・・・・・
くどくど書くのが面倒なぐらい、自分にとって、ずっと続いてきた日常であって、現実だ。
早い話・・・・に全くなってないが・・・・・
メッセージする前に、神の言葉で、からだ中くまなく"マッサージ"してもらおう、ということ。
できれば四六時中。
"マッサージ"をどれだけ受けたかが、具体的なメッセージを成り立たせるカギだ。
特に、触れられたか、触れられていないか、は決定的。
その場合・・・・・
聖書が発している言葉を受けるのに、自分が選り好みしたら、即、ゲームオーバー。
この「選り好み」に対して、自分なりに、多少は厳しくなった。
み言葉の選り好みとは、一種の逃げ、「現実逃避」だ。
つまり、それが出てしまったなら、リセットせよ、ということだ。
「リセット」とは、神の前に置かれたまな板の上に、改めて身を横たえるようなことだ。
そこから逃げきってしまったら、「言語明晰な空々しいメッセージ」が語られて終わる。
だから・・・・
メッセージする者としての自分がどの段階にいても、「逃げ」に気づいたらリセット。
メッセージする直前だろうが、している最中だろうが、体ごとリセット。
何かが示された以上、そこで絶句して語れなくなることは、絶対に、ない。
しどろもどろになるなんて、あり得ない。
そう信じて、裏切られたことは・・・・・
今のところ、ない・・・・・
ということは・・・・・
まだ、いつか講壇で絶句するかもしれない、と怖がっている。
おそれずに語ると言いつつ、怖がりながら語ることも・・・・・
「まな板の上に乗る」ことなのだろう。
