クリスチャンにとって、
クリスチャンであることは、
人間であることと同じである。
・・・・・なんて言うと、
Boxyは、
クリスチャン以外は人間じゃない、
と言ってる、
と非難されそうだ。
それは誤解だ。
言いたいことはこうだ。
クリスチャンにとって、
クリスチャンであることは、
単なる一つの属性では無い。
その人が人間であることを根底から支える、
在り方そのものだ。
クリスチャンになった、
ということは、
クリスチャンであることを外しては、
まともな人間でいられなくなった、
ということだ。
もし、
クリスチャンが、
クリスチャンであることをやめることができたなら、
人間ではいられなくなる。
「神と関わる人間」ではいられなくなる。
「イエス・キリストを通して神と関わる人間」
それが
クリスチャンとなった人間の存在様態である。
そう思い込んでる人がクリスチャンなんだろう、
と笑うなかれ。
実際には、
そこまで思い込めないクリスチャン
がほとんどだ。
しかし、
クリスチャンとは、
実は、
この世に於ける存在様態を変えられた人間だ。
教会にいる時だけ、
内向きには堂々とクリスチャンの看板を掲げて、
一歩教会から出ると、
一般の人々に紛れて生きる。
そんな「隠れクリスチャン」であることは、
その存在様態にそぐわない
無理な生き方である。
その人は、
看板を掲げるまでもなく、
存在そのものがクリスチャン、
キリストのものなのだから。
無理が続けば、
無理がたたって、
必ず調子がおかしくなる。
それでも全然平気、
というクリスチャンは、
実は、何かの間違いで、
元々クリスチャンでは無かったのかもしれない・・・・・・
・・・と聞いて、
「えっ!それって怖い」
と思ったクリスチャンのあなたは大丈夫。
クリスチャンとして生きるとは、
別に、
伝道者になるとか、
いかにもそれらしい活動をするとか、
クリスチャン「らしく」生きることでは無い。
神によってクリスチャン「とされた」こと、
その結果、クリスチャン「である」ことを真に受けて、
置かれた場所で生きることだ。