特に殺人や傷害事件において、
犯人、もしくは被疑者の責任能力の有無が問われるケースが多い。
精神疾患等によって、心神喪失状態で犯罪を犯す場合がある。
その事実が認められれば、犯罪を犯したことへの責任は問われない、
したがって、罪に問われないことがある。
納得できる、合理的だと考える人も多いと思うが、
Boxyとしては、違和感を感じる。
責任能力が無いと見なされる、ということは、
その人の人格が認めれていないということに通じると考えるからだ。
人間を創造された神は、人間一人一人に、
神に応答する者としての能力と責任をお与えになった。
人格の基礎はここにあり、
だからこそ、神は人にお与えになった責任をとことん追及なさる。
この神の責任追及がなければ、
イエス・キリストが十字架で人の罪をあがなう必要も無かっただろう。
責任能力の有無という観点からは、刑罰の意味を正しく考えることもできない。
刑を受ける、ということは、罪を償うことで、責任を果たすことである。
刑を受けるということは、罪が帳消しになることを意味する。
責任能力を認めないことは、刑を受けることができないことであり、
それは、犯した罪がいつまでも消えないことでもある。
責任能力が無いなら無いで、代わって責任を負う人を立てる必要があるが、
それも行われない。
たしかに、監督義務がある者がいれば、監督責任を問われたりする。
しかし、犯された罪に対する責任は誰も問われない。
何度も言うが、
責任は、神がおられる限り、神に対するものとして消えることがない。
その世界観の中で、責任能力が無いと見なされることは、
存在そのものが認められないことになる。
その人は居ないも同然。
大変怖ろしいことなのだ。