今日は母の日だった。


わたしの母は1990年の7月末日に65歳で亡くなった。

24年前のことだ。


母は、亡くなる15年前に乳ガンを発症していた。

健診ではなく、自覚症状で気づいたガンだった。

当時の乳ガンの手術は今よりも大きく患部を切り取るもので、

その時、母は片方の乳房と脇のリンパ腺を大胸筋ごと失った。


母が一人泣いている姿を一度だけ見た記憶がある。

しかし、前と変わらない明るい表情で日々を過ごしていた姿が勝っているために、

その記憶の像は、もう焦点を結ぶことがない。


同室で同様の手術を受けた女性たちが次々と亡くなっていく中で、母は生き続けた。

その間、彼女の一人息子は、大学を出て、就職し、結婚した。

孫娘も生まれた。

彼女の死の前年に、息子はクリスチャンになった。


最期は呼吸器が弱っていて、肺へのガンの転移も若干見られたが、

ガンは直接の死因ではなかった。

人工呼吸器を付けることになり、筆談で「また生き延びちゃった」と書いて見せた母も、

さすがにその状態では頑張りきれなかった。


わたしは愚かにも、点滴で見た目だけは元気な母を置いて、

当時勤めていた学校で顧問をしていた体操部の合宿に出かけた。

初日の夕方に危篤の知らせを受け、諏訪から東京の府中の病院まで戻った時には、

母の病室はすでにきれいに片付けられていた。


母は戦争中にカトリックの洗礼を受けていた。

そのため父は葬儀を仏式にしなかったが、

母が教会生活を続けていなかったので、葬儀を依頼する教会もなかった。

僧侶も神父もいないままの葬儀。

喪主の父は、式の最後の親族挨拶をクリスチャンの長男に振った。

何をしゃべったか憶えていない。

妻はちゃんと話していたと言ってくれるが、わたし自身としては不本意だった。

何も語れなかったという苦い思いだけが残った。


わたしが後に牧師になった背景には、

大切な時に神の命の言葉を取り継げなかったという、この時の体験がある。

語れなくて当前だったのだが、当前では済まなかったのだ。

母はこの点についてもやはり母だったのか、と、今日、思った。