京都の紹介~
二月と言えば、梅見です。梅と言えば、なんといっても、天神様こと菅原の道真を思い浮かべる人もいるでしょう?
でも、何故?それは、道真公は梅を特に好み、大宰府に左遷されていく時にも、庭になっている梅を見て、二度とみれないかもしれないと言う万感の思いをこめ、
「こちふかば、においおこせよ、うめのはな、あるじなしとて、はるをわするな。」
と詠んでいます。多くの道真公を紹介する文面で、身分が低いなどと書かれていますが、道真公は、古代豪族の土師氏の出身で、ハッキリ言って名門です。
土師氏は、大阪府の羽曳野付近の道明寺あたりを根拠地にしていました。
道真公は生まれた時代が悪かった。平安時代にもなれば、多くの古代豪族は駆逐され、中央の上級官僚は、藤原氏が一極独占状態でした。
わずかに、大伴氏と天皇家から臣籍降下した家の一族が上級官吏に残るのみで、あとは、ほとんど下級官僚になっていたのです。
#正確に言えば、大伴氏も、いんねんをつけられて浮沈があり、伴善男大納言が失脚して以降は、下級官吏になってしまいますので、最終的には古代豪族は中央からは消えてしまいます。
この時代に作られた竹取物語は、少し時代を遡って実在の人物が書かれていますが、その時代の藤原不比等のみくらもちの皇子として出てきて、くらもちの皇子や天皇ですら求愛できず、姫は月に帰ってしまうことから、古代豪族の恨みの意味がこめられていると言われています。
そのくらい、藤原氏というのはえげつない一族だったのは確かでしょう。
その藤原氏と互角に戦った道真公はすごい人物であったことは間違いなく、なんと右大臣にまでなりました。
学者で最高位三官に出世した始めての人となったのです。ちなみに、この時代母方の父親の力が出世には不可欠なのですが、道真公の母は、名門大伴氏。そのことも天皇の目にとまったのかもしれません。この時代の天皇は藤原氏の権勢に良い思いをしていませんので。
大伴氏は、藤原氏に唯一対抗してきた古代豪族です。大伴家持が死ぬとその力も衰えてしまいますが。
右大臣だった道真公、それを疎ましく思った藤原氏によって左遷されてしまいまい、
死ぬまで都を思いながら、大宰府から戻ることはありませんでした。
なお、息子たちもそれなりに出世しています。
その道真公を祭る京都の神社と言えば、北野天満宮。そして、長岡天神。北野天満宮に併設する平野神社は桜の名所です。是非花見の季節にいはいってみましょう。
ただし、車は混み合いますし、鉄道からは離れています。バスは内部で大渋滞になります。
私のお勧めは、ちょっと遠目のところに車を止めて歩いていくことです。
すぐ近くの駐車場は激混みなので待ち時間損しますよ。
ついでにですが、大宰府は左遷される官職になってしまいましたが、官位的には結構高いし、本来は大事な役割を担っています。
たまたま、藤原隆家と言う藤原道長の政敵であった、藤原伊周の弟が左遷された時、刀伊の入冠があり、大宰府が海賊に教われました。
藤原隆家は花山上皇に酔っ払って矢を射掛けた罪でここに居たほどの荒くれもの。この時期に、藤原隆家は、大宰府に適任であり、ここぞとばかりに自慢の武勇で追い払って事なきを得ています。
大宰帥は、古くは、大伴旅人も九州が不穏な情勢になった際、将軍として赴くなど、重要な官職のはずでした。ところが、平和な時代になると、都を離れる=左遷と言う事になったわけなのです。
確かに、遠いと権勢からは遠ざかります。大伴旅人も、いない間に体制を固められてしまい、藤原不比等より位階が高くなりましたが、大納言どまりでした。それほど藤原氏の権勢は強かったのです。






長岡京にある勝竜寺城。復元で、場所も若干異なるようですが、資料館なども存在します。
あの羽柴秀吉との天下分け目となった山崎の戦いで、明智光秀が本陣を置いた場所になります。
本能寺の変の頃、織田家重臣は以下のような状態でした。
柴田勝家:越中魚津城で上杉景勝軍と交戦中
滝川一益:上野厩橋城にて関東を采配
丹羽長秀:大坂・堺で織田信孝と共に四国征伐軍組織中
羽柴秀吉:備中高松城で毛利軍と交戦中(水攻め中)
徳川家康:堺見物中
ついでに、佐久間信盛:紀州高野山に蟄居
で、都付近に居たのは、織田信孝・丹羽軍のみであったのですが、
本能寺の凶報に際し、軍が解体。兵が集まらなくなります。
明智軍は、この隙をついて、安土城まで手中に収めていました。
しかし、羽柴軍のみ、思った以上の進撃速度で京都に戻ってきたため、明智軍は手元においていた兵力以上は展開できなかったのでした。右腕であり、自分の娘婿でもある明智左間助は安土にいると言う失態を招きます。
当時山崎の地は商業がさかんであり、ここの街中を戦場にして戦えば、大軍でくる秀吉軍も、
勢いを殺されていたことでしょう。
しかし、この時、明智軍は、それをせず、勝竜寺城という小さな城を本陣に、野戦に打って出るのです。なんと明智軍には、織田家の親族でもある津田信澄(信長に自刃させられた信行の忘れ形見)家老の津田与三郎や、柴田一門であり、柴田勝家の越前北庄城代も務めた柴田勝全も明智軍に参加しているのです。予断ですが、津田与三郎を送り込んだ津田信澄は秀吉によって自刃に追い込まれますが、その子孫は旗本として存続しました。
この時の明智軍布陣は、
斎藤利三、柴田勝全らの近江衆五千人。
その右翼には、松田太郎左衛門、並河掃部らの丹波衆二千人。
本隊右備えに伊勢与三郎、諏訪飛騨守、御牧三左衛門らの旧室町幕府衆二千人。
本体左備えに津田与三郎の二千人。
本隊兼予備隊は、総大将の光秀が五千人を率い下鳥羽にあったと言われています。
安土に残してきた兵などがいないため、秀吉軍2万~4万とも言われる半分以下であったわけです。
光秀は戦上手の宿老斎藤利三と相談し、天王山を放棄して隘路を縦長で進撃してくる羽柴勢を逐次撃破するという、繰り引き戦法で攻撃するとしていたのですが、
この戦術だと堅実かつ少なくとも敗勢になりにくい。
しかし、光秀は天王山にいる敵がどうやら弱体であると見て、急遽作戦を切りかえます。
「なんということか。今動いては、敵に乗ぜらるるものを。殿の武運も、もはや、これまで
」山崎表先鋒の陣所で、羽柴方から戦闘を仕懸けさせようと満を持していた斎藤利三は、
手にした采配を床几に叩きつけ、歯ぎしりをしたと言われています。
そもそも、寡兵で大勢と戦う場合、相手に攻撃させるのが上策である。自分から攻撃しては、方位殲滅、あるいは、各個撃破してくださいといわんばかりになる。
敵勢が攻め寄せて来る時、諸隊の隊形が整わずに混乱動揺する瞬間が必ずあり、その時が、攻撃の好機なのですね。
だが、右翼の味方が突然作戦を破って攻めかけ、予備隊までが行動をともにしたので、情勢は一変。
当初は、それでも明智勢は善戦した。松田・並河の部隊は、鉄砲を放ち、寄せ太鼓を乱打しつつ、二十町ほど離れた天王山麓の羽柴勢にむかい突撃しています。
光秀の予備隊が急速に進撃。
実は、半刻前、松田太郎左衛門が、天王山前面の敵が意外に寡勢であるため、こ
れを一気に蹴散らし、山頂を占領したいと申し出ていました。
光秀は松田の注進をうけ、目の前の餌に食いついてしまったのであります!
もしも天王山を奪えば、眼下の西国街道に充満している羽柴勢の側面へ、なだれをうって斬りこめる。そうなれば羽柴勢は分断され、大混乱に陥る。その機に本陣を襲えば秀吉の首級をあげられるかも知れないという悪魔の果実。
”かもしれない”は”そうあってほしい”と言う願望に変わる。そして、それは、”そうなるに違いない”と自らの思いが強く出てしまうのだ。それを客観かつ冷静に判断できる将は、光秀の傍らにいなかったのです。
斉藤利三は山崎の前面、最前線にいたからで、光秀軍の陣容の薄さが仇となっていたのです。
光秀は焦っていたのかもしれない。しかし、結果は、一進一退の攻防が続いていた一刻あと、池田恒興・元助父子と加藤光泰率いる別働隊が津田隊の側面をつく事に成功。
津田隊は大混乱に陥り、光秀本隊の側面にも危険が及ぶ。全軍が浮き足立った明智軍は各隊が劣勢に立たされ、ついに、総崩れとなる。攻勢をしかけ、逆に攻勢を呼び込んでしまったわけです。
明智光秀率いる軍勢は、兵の脱走・離散が相次ぎ、勝竜寺城にまで引いた時には、わずか700名程度にまで減衰していたと言われますが、これではとても戦えるものではない。
ついには、居城の坂本城へ敗走する途中、落ち武者狩りにあいあえなく落命したのです。
その勝竜寺城が復興されています。小さい城だが、雰囲気のある城。資料館はなかなか面白く、無料であるので、長岡天神への梅見がてらよってみるのも良いでしょう。

長岡天満宮にて。どうですか?綺麗な池でしょう?

でも、何故?それは、道真公は梅を特に好み、大宰府に左遷されていく時にも、庭になっている梅を見て、二度とみれないかもしれないと言う万感の思いをこめ、
「こちふかば、においおこせよ、うめのはな、あるじなしとて、はるをわするな。」
と詠んでいます。多くの道真公を紹介する文面で、身分が低いなどと書かれていますが、道真公は、古代豪族の土師氏の出身で、ハッキリ言って名門です。
土師氏は、大阪府の羽曳野付近の道明寺あたりを根拠地にしていました。
道真公は生まれた時代が悪かった。平安時代にもなれば、多くの古代豪族は駆逐され、中央の上級官僚は、藤原氏が一極独占状態でした。
わずかに、大伴氏と天皇家から臣籍降下した家の一族が上級官吏に残るのみで、あとは、ほとんど下級官僚になっていたのです。
#正確に言えば、大伴氏も、いんねんをつけられて浮沈があり、伴善男大納言が失脚して以降は、下級官吏になってしまいますので、最終的には古代豪族は中央からは消えてしまいます。
この時代に作られた竹取物語は、少し時代を遡って実在の人物が書かれていますが、その時代の藤原不比等のみくらもちの皇子として出てきて、くらもちの皇子や天皇ですら求愛できず、姫は月に帰ってしまうことから、古代豪族の恨みの意味がこめられていると言われています。
そのくらい、藤原氏というのはえげつない一族だったのは確かでしょう。
その藤原氏と互角に戦った道真公はすごい人物であったことは間違いなく、なんと右大臣にまでなりました。
学者で最高位三官に出世した始めての人となったのです。ちなみに、この時代母方の父親の力が出世には不可欠なのですが、道真公の母は、名門大伴氏。そのことも天皇の目にとまったのかもしれません。この時代の天皇は藤原氏の権勢に良い思いをしていませんので。
大伴氏は、藤原氏に唯一対抗してきた古代豪族です。大伴家持が死ぬとその力も衰えてしまいますが。
右大臣だった道真公、それを疎ましく思った藤原氏によって左遷されてしまいまい、
死ぬまで都を思いながら、大宰府から戻ることはありませんでした。
なお、息子たちもそれなりに出世しています。
その道真公を祭る京都の神社と言えば、北野天満宮。そして、長岡天神。北野天満宮に併設する平野神社は桜の名所です。是非花見の季節にいはいってみましょう。
ただし、車は混み合いますし、鉄道からは離れています。バスは内部で大渋滞になります。
私のお勧めは、ちょっと遠目のところに車を止めて歩いていくことです。
すぐ近くの駐車場は激混みなので待ち時間損しますよ。
ついでにですが、大宰府は左遷される官職になってしまいましたが、官位的には結構高いし、本来は大事な役割を担っています。
たまたま、藤原隆家と言う藤原道長の政敵であった、藤原伊周の弟が左遷された時、刀伊の入冠があり、大宰府が海賊に教われました。
藤原隆家は花山上皇に酔っ払って矢を射掛けた罪でここに居たほどの荒くれもの。この時期に、藤原隆家は、大宰府に適任であり、ここぞとばかりに自慢の武勇で追い払って事なきを得ています。
大宰帥は、古くは、大伴旅人も九州が不穏な情勢になった際、将軍として赴くなど、重要な官職のはずでした。ところが、平和な時代になると、都を離れる=左遷と言う事になったわけなのです。
確かに、遠いと権勢からは遠ざかります。大伴旅人も、いない間に体制を固められてしまい、藤原不比等より位階が高くなりましたが、大納言どまりでした。それほど藤原氏の権勢は強かったのです。






長岡京にある勝竜寺城。復元で、場所も若干異なるようですが、資料館なども存在します。
あの羽柴秀吉との天下分け目となった山崎の戦いで、明智光秀が本陣を置いた場所になります。
本能寺の変の頃、織田家重臣は以下のような状態でした。
柴田勝家:越中魚津城で上杉景勝軍と交戦中
滝川一益:上野厩橋城にて関東を采配
丹羽長秀:大坂・堺で織田信孝と共に四国征伐軍組織中
羽柴秀吉:備中高松城で毛利軍と交戦中(水攻め中)
徳川家康:堺見物中
ついでに、佐久間信盛:紀州高野山に蟄居
で、都付近に居たのは、織田信孝・丹羽軍のみであったのですが、
本能寺の凶報に際し、軍が解体。兵が集まらなくなります。
明智軍は、この隙をついて、安土城まで手中に収めていました。
しかし、羽柴軍のみ、思った以上の進撃速度で京都に戻ってきたため、明智軍は手元においていた兵力以上は展開できなかったのでした。右腕であり、自分の娘婿でもある明智左間助は安土にいると言う失態を招きます。
当時山崎の地は商業がさかんであり、ここの街中を戦場にして戦えば、大軍でくる秀吉軍も、
勢いを殺されていたことでしょう。
しかし、この時、明智軍は、それをせず、勝竜寺城という小さな城を本陣に、野戦に打って出るのです。なんと明智軍には、織田家の親族でもある津田信澄(信長に自刃させられた信行の忘れ形見)家老の津田与三郎や、柴田一門であり、柴田勝家の越前北庄城代も務めた柴田勝全も明智軍に参加しているのです。予断ですが、津田与三郎を送り込んだ津田信澄は秀吉によって自刃に追い込まれますが、その子孫は旗本として存続しました。
この時の明智軍布陣は、
斎藤利三、柴田勝全らの近江衆五千人。
その右翼には、松田太郎左衛門、並河掃部らの丹波衆二千人。
本隊右備えに伊勢与三郎、諏訪飛騨守、御牧三左衛門らの旧室町幕府衆二千人。
本体左備えに津田与三郎の二千人。
本隊兼予備隊は、総大将の光秀が五千人を率い下鳥羽にあったと言われています。
安土に残してきた兵などがいないため、秀吉軍2万~4万とも言われる半分以下であったわけです。
光秀は戦上手の宿老斎藤利三と相談し、天王山を放棄して隘路を縦長で進撃してくる羽柴勢を逐次撃破するという、繰り引き戦法で攻撃するとしていたのですが、
この戦術だと堅実かつ少なくとも敗勢になりにくい。
しかし、光秀は天王山にいる敵がどうやら弱体であると見て、急遽作戦を切りかえます。
「なんということか。今動いては、敵に乗ぜらるるものを。殿の武運も、もはや、これまで
」山崎表先鋒の陣所で、羽柴方から戦闘を仕懸けさせようと満を持していた斎藤利三は、
手にした采配を床几に叩きつけ、歯ぎしりをしたと言われています。
そもそも、寡兵で大勢と戦う場合、相手に攻撃させるのが上策である。自分から攻撃しては、方位殲滅、あるいは、各個撃破してくださいといわんばかりになる。
敵勢が攻め寄せて来る時、諸隊の隊形が整わずに混乱動揺する瞬間が必ずあり、その時が、攻撃の好機なのですね。
だが、右翼の味方が突然作戦を破って攻めかけ、予備隊までが行動をともにしたので、情勢は一変。
当初は、それでも明智勢は善戦した。松田・並河の部隊は、鉄砲を放ち、寄せ太鼓を乱打しつつ、二十町ほど離れた天王山麓の羽柴勢にむかい突撃しています。
光秀の予備隊が急速に進撃。
実は、半刻前、松田太郎左衛門が、天王山前面の敵が意外に寡勢であるため、こ
れを一気に蹴散らし、山頂を占領したいと申し出ていました。
光秀は松田の注進をうけ、目の前の餌に食いついてしまったのであります!
もしも天王山を奪えば、眼下の西国街道に充満している羽柴勢の側面へ、なだれをうって斬りこめる。そうなれば羽柴勢は分断され、大混乱に陥る。その機に本陣を襲えば秀吉の首級をあげられるかも知れないという悪魔の果実。
”かもしれない”は”そうあってほしい”と言う願望に変わる。そして、それは、”そうなるに違いない”と自らの思いが強く出てしまうのだ。それを客観かつ冷静に判断できる将は、光秀の傍らにいなかったのです。
斉藤利三は山崎の前面、最前線にいたからで、光秀軍の陣容の薄さが仇となっていたのです。
光秀は焦っていたのかもしれない。しかし、結果は、一進一退の攻防が続いていた一刻あと、池田恒興・元助父子と加藤光泰率いる別働隊が津田隊の側面をつく事に成功。
津田隊は大混乱に陥り、光秀本隊の側面にも危険が及ぶ。全軍が浮き足立った明智軍は各隊が劣勢に立たされ、ついに、総崩れとなる。攻勢をしかけ、逆に攻勢を呼び込んでしまったわけです。
明智光秀率いる軍勢は、兵の脱走・離散が相次ぎ、勝竜寺城にまで引いた時には、わずか700名程度にまで減衰していたと言われますが、これではとても戦えるものではない。
ついには、居城の坂本城へ敗走する途中、落ち武者狩りにあいあえなく落命したのです。
その勝竜寺城が復興されています。小さい城だが、雰囲気のある城。資料館はなかなか面白く、無料であるので、長岡天神への梅見がてらよってみるのも良いでしょう。

長岡天満宮にて。どうですか?綺麗な池でしょう?
