・・The XX Files 20th.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
Han-nichi is Never Over⁉️
This is a Fact
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Back To 戦後 Beginning"
We are SumerJapanese.Departure.
(FunnyBomb).
■シベリア抑留続編・悲惨な抑留生活
●死の三重苦
抑留生活は、「飢餓」、「強制労働」、「極寒」のシベリア三重苦と呼ばれるものに総称されます。
飢餓により体力が削がれ、そこに重労働と極寒が加重となり、多くの抑留者が非業の死を遂げました。
●寝具と便所と着替え
抑留者が収容された宿舎は、便所と寝具がありません。なので、寝る時は板の上でマットも布団もシーツもなく、雑魚寝する他なく、便所は宿舎から100m以上も離れた外の共同便所しかなく、長方形の穴を掘った上に板を渡しただけの囲いも仕切りもない、古代式のもので、隣の人が排泄する横で用を足すと言う下劣なもの。
基本的に服も下着も替えは支給されません。衛生事情は最悪を極めました。
●食事
栄養失調とは言え、食事は配給されていました。しかし、労働者に見合った分量かと言うと、絶対的に量が少ないものでした。
又、メニューは酸っぱい臭いのする黒パンと雑穀の粥とスープと言うもので、とても日本人の口に合うものではありませんでした。
ソ連の収容所の職員は、自分達と同等の、若しくはそれ以上の分量を与えている筈なのに、何故、日本人に犠牲者が多いのかと疑問を抱いていました。
これは、極寒についても同じで、体質的に現地の寒さに強いロシア人は平気なのに比べて、温暖な国に住む日本人にはシベリアの寒さは耐え難いものだったのです。
抑留者の殆どは、栄養失調となり、痩せ衰えて死に至ります。
この症状を、ロシア語でドハジャーカと言いました。
収容所の食事は、低脂肪、低カロリー、低タンパク、低ビタミンと低づくしなものでした。
●シラミと南京虫
着替えは全く支給されず、不潔で衣類を一切着替えない為、集団で狭い宿舎に寝泊りする捕虜達は、たちまちシラミの餌食となりました。
痩せた体に、無数のシラミが集り(タカリ)血を吸い取っている様子は不気味でした。
堪らずに、潰しても数が追いつきません。
シラミは、チフスや回帰熱などのウイルスを感染させました。
回帰熱とは、40度の高熱を発して翌日死に至ると言う、非常に致死率の高い病気でした。
隣の人が死ぬと、死体に集っていたシラミが一斉に別の捕虜に移動する光景も気味の悪いものだったそうです。
カメムシ科に属する南京虫は、日中、宿舎の天井や柱、板の間の割れ目などに潜み、暗くなると出てきては捕虜の血を吸い、刺されるとシラミよりも強い痒みに襲われ、潰すと不快な臭気を発するものでした。
●不潔極まる衛生環境
衰弱が始まった捕虜は、大体痩せこけて下痢と頻尿の症状が始まります。
便所は、宿舎から100m以上離れた野外の共同便所で、栄養失調が始まった捕虜は、宿舎と離れの便所を何度となく往復する事になります。
寒さは厳しく、便所への往復が更に体力を削いでいきます。
当時、ロシア人は用を足した後、尻を拭く習慣がなかったそうです。
勿論、日本人にはありました。が、収容所では便所紙が支給されません。
日本人捕虜は、堪らずにセメント袋や服の綿、草の葉などを便所紙に代用しました。
ロシア人も捕虜達も、皆下着の中は汚物まみれだったそうです。
下着がその様な状態の為、下着にこびり付いた便が、服にも付着するのはよくある事でした。
ただ、食事が黒パンと雑穀の粥が主食だった為か、ウサギの様な乾燥した便しか出なかったそうです。
■GHQ東京上陸
昭和20年(1945)8月28日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)東京上陸。
2日後にマッカーサー元帥来日、厚木飛行場に降り立ちます。
マッカーサー元帥が搭乗してきた政府専用機の名は、皮肉にも「バターン号」でした。
■ 降伏文書調印日
昭和20年(1945)9月2日、東京湾洋上の米戦艦ミズーリ号甲板で行われた降伏文書調印式の日。
尚、米国でこの日はVJ Dayと呼ばれています。
また、英国でのVJ Day は8月15日で、朝鮮でも8月15日とされますが、韓国では、この日を光復節と命名し国民の祝日にしています。
マッカーサー元帥は、戦艦ミズーリ号で正式に日本が降伏文書に署名調印した数分後、米国民に向かってラジオ放送しました。
・・・「今日、銃声は止んだ。大きな悲劇は終わった。偉大な勝利が勝ち取られた。空は、最早死を降らせる事はなく、海は商業の為にのみ使われ、人々は明るい日差しの中、怯える事なく堂々と歩く事が出来る。
今、全世界は平和の静けさを味わっている。今、ここに神聖な使命は達成された。
今日、我々は92年前のペリー提督の様に東京に立っている。彼の目的は友好、貿易、商業に対して鎖国のベールを取らせ、日本に文明と進歩の時代をもたらす事だった。
しかし、悲しいかな、西洋科学の知識は人間の抑圧と奴隷化の道具となった。
表現の自由、行動の自由、思想の自由は、教育の抑圧や迷信の強制によって、更に暴力によって否定された。
今日、自由は攻勢に出ている。民主主義は前進している。今日、ヨーロッパでもアジアでも屈従から解き放たれた人々は、自由の甘き香りと恐怖からの解放を味わっている」・・・
ww2の終結と大東亜戦争の終結を、学術的にどう捉えるのかは分かりませんが、wikiでは、ww2の終戦は昭和20年9月となっています。米国空母ミズーリ号での正式な降伏文書の調印日に合わせたのでしょう。
■ GHQ報道統制発令
昭和20年(1945)9月10日、GHQ 報道・思想の自由に関する指令発令。
日本のマスコミは、このマッカーサー民主主義を「何を書いても自由」なのだと勘違いし、とたんにGHQ司令部や連合国の戦争責任等を批判し始めました。
GHQの思惑にまんまと引っかかったのです。
マスコミのこの動きを、GHQは、「民主主義の為の検閲」を実施する為の絶好の理由にしました。
民間検閲主任・ドナルド・フーバー大佐はこう指摘しました。
「マッカーサー元帥は、日本政府及び新聞、ラジオの9月10日の指令に対する対応について満足しておられない。元帥は、報道の自由に強い関心を持ち、連合国もその為に戦ってきた。
しかし、お前達は報道の自由を逸脱する行為を行っており、報道の自由に伴う責任を放棄している。
従って、マッカーサー元帥は、より厳しい検閲の実施を指令された。元帥は、日本を対等とみなしていないし、日本はまだ文明国の仲間入りをする資格はない、と考えておられる。
この点をよく理解しておけ❗️新聞、ラジオに対し100%の検閲を実施する。嘘や誤解を招く報道、連合国に対するいかなる批判も絶対に許さない。」と通告しました。
マッカーサーが、日本の将来について自由な論議をせよと言ったのは、日本国民の間で、天皇陛下の批判が巻き起こる事を期待したからでした。
ところがアカヒ新聞は、天皇批判ではなく、「原爆の非人道性は、もとより全人類の認める所である、我々は敢然とその非を鳴らさなければならない」と断言しました。
戦後、間も無い頃はアカヒ新聞も保守系新聞だったのです。
GHQは、「フィリピン戦における日本軍の典型的残虐行為」と言う報告書を日本で大々的に公表しました。読売報知の掲載でした。
アカヒ新聞は、二日間の発行停止処分を受けました。
たった二日間の発行停止と言っても、その被害額は莫大なものでした。アカヒ新聞はその日、その恐怖から反日極左新聞へ変貌し、戦後75年経った今でもそれは続いています。
■プレスコード発令
昭和20年(1945)9月21日、GHQは新聞、ラジオメディア、雑誌等へのプレスコード発令。
⑴ ニュースは絶対に真実でなければならない。
⑵ 公安の治安を乱す事は、掲載してはならない。
⑶ United Nations に関して、破壊的又は誤った批判をしてはならない。
等々・・・
プレスコードは、10項目に及ぶ規制条件でした。そして、プレスコードの適用範囲は『あらゆる新聞のニュース、社説、広告は元より、日本で印刷される全ての出版物に適用される』と発表されました。
マッカーサーは、電波を厳しく支配しラジオコードまで発令します。
■幣原内閣発足
昭和20年(1945)10月9日。
東久邇内閣がGHQマッカーサーに見放されて、総辞職した後、次の総理を誰にするかと言う問題が発生しました。
東久邇内閣時の外相・吉田茂が同じ外交官出身の幣原喜重郎を推薦し幣原内閣が発足。
幣原政権時、天皇陛下の「人間宣言」発言がありました。原案を起草したのは幣原です。
外人にも納得出来る様に、「天皇は神話とは関係ない」「神ではない」という事を鮮明にしたのです。
言い換えれば、「人間宣言」は欧米人が錯覚を起こしやすい神=Godの否定だったのです。
主な政治課題は、マッカーサー憲法を日本の憲法として国会へ上程し議決させると言う憲法改正でした。
支那事変開戦時の首相、近衛文麿(コノエフミマロ)は、幣原政権で内大臣府御用係と言う役職に就き、新憲法草案に尽力していました。
近衛は、憲法草案を完成させ、天皇陛下に提出します。
が、明治憲法の最初の13条はそのまま残っており、天皇大権にも変更ありません。
マッカーサーは、「近衛、役立たず」と思い荒療治を決断します。
近衛を約286人の戦犯容疑者の一人に指名し、巣鴨プリズンまで出頭する様命令したのです。
昭和20年(1945)12月16日、近衛は暗殺されました。
青酸カリでした。知らせを聞いた米軍のMP達は、土足で近衛家に入り込み、日本人の弔問客を出入り禁止にしました。
支那事変開戦時の近衛元首相、太平洋戦争開戦時の東條元首相は、文字通りマッカーサーによって葬られたのです。
■ GHQによる日本解体開始
昭和20年(1945)10月。
GHQは、治安維持法廃止、報道規制廃止、特高警察廃止、憲兵隊廃止、内務省廃止、共産党政治犯出獄、新聞赤旗・発行再開を始めます。
日本を完全武装解除し、軍国主義者達の権威と軍国主義の影響を、政界、経済界、社会生活から完全に抹殺する。
軍国主義と侵略を推進した諸機関を徹底的に潰す。日本は、陸軍、海軍、空軍、秘密警察機構を持ってはならない。いかなる形でも民間航空を持ってはならない。
・・・これらは米国政府の公式宣言です。この政策を実行する為、マッカーサー司令部は「逮捕、拘留されるべき日本人」と「廃止する団体」のリストを作りました。日本潰し作戦は猛スピードで進んで行きました。
■ニュルンベルク裁判(Nuremberg Military Tribunals, NMT.)
昭和20(1945)11月から昭和24年(1949)4月。
当時の枢軸国、独国(ナチスドイツ)を連合国(United Nations)が断罪した国際軍事裁判。何でも世界史上、東京裁判と合わせて二大国際軍事裁判と呼ばれているそうです。
死刑執行10人。
To be Continue
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:近代日本への道vol.1参照