・・The XXX Files 20th.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
Han-nichi is Never Over⁉️
This is a Fact
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Back To 近代 Beginning.Grand Finale"
We are Sumer‐Japanese.
(FunnyBomb).
■マッカーサー司令官vs神風特別攻撃隊
米軍のマッカーサー司令官は、昭和17年(1942)のフィリピン戦で日本軍に破れた際、I Shall Return と宣言した通り フィリピンの戦場レイテ島に戻り、逆襲を図るべく再び日本軍に総攻撃をかけます。
その翌日、初めて神風特攻隊が死地へ向かって飛び立ちました。
米軍はレーダー探知機を持っていました。
レーダーに点々が現れます。
神風はまだ肉眼では見えません。しかし、その点々の方向に全ての機関銃と全ての対空砲を撃ち始めます。
10機位の神風が肉眼で見えます。真っ直ぐ航空母艦に突っ込んで来ます。
米兵達は、気が狂いそうな恐怖に震えながら機関銃を撃ちまくり殆どを30分位で撃ち落とします。
しかし、時折1機だけがいくら弾を浴びても落ちません。銃弾の波間をかいくぐり、近ずいては逃げ、そしてまた突っ込んでくる、日の丸の鉢巻が見えます。
祖国の為に死を覚悟して、己の勇気と誇りに支えられ、横殴りの機関銃の弾雨を見事な操縦技術で避け航空母艦に体当たりし撃沈しようとする恐るべき敵に米兵達は、深い畏敬と凍り付くような恐怖とが入り混じった感動に似た感情を覚えます。
命をかけた死闘が続きます。遂に神風は燃料尽き、突っ込んで来ます。その時撃ち落とす。
その瞬間ドッと大歓声が湧き起こります。
直後に、耳が避ける様な轟音を発していた甲板上がシーンとして静寂に覆われます。
米兵達は、その素晴らしい敵、日本人に「なぜ落ちたのだ」「これだけ見事に闘ったのだから引き分けにして基地に帰れば良かったのに」と言いました。
フィリピンこそ、大東亜戦争の天王山、明暗を分けた戦場でした。
彼の国は、16世紀から白人覇権主義に悩まされ、必死に抵抗して来ました。
ポルトガル人、マゼラン率いるスペイン艦隊(あのマゼラン海峡のマゼラン)が押し寄せた時、フィリピン人は反乱を起こしマゼランは彼の国で果てました。その後もフィリピンは、スペインに侵攻されます。
やっとの思いでスペインから独立したフィリピン人。
独立も束の間、米国がフィリピンに入植し支配を始めたのです。
そこに大東亜共栄圏を引っ下げて、神風アタックの猛追で現地の抵抗運動に加勢したのが日本だったのです。
日本軍のフィリピン戦での戦死者総数、実に50余万人。
今でも、フィリピンにはカミカゼ記念協会が存在し、奇形左翼が神風を否定し忘却しようとしている時、皮肉にもフィリピン人の手によって関大尉率いる敷島隊は尊崇され神風の魂は保存されているのです。フィリピン人は証言します。
「当時、白人は黄色人種を見下していました。しかし、日本は世界のあらゆる人種が平等だとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の抵抗だったのです。日本人は、もっと特攻隊員に尊敬と感謝すべきです」と。
神風を否定し、感謝はおろか追悼すらしない、ひたすらNationalismや神風を軍国主義だ、悪だと拒絶し続ける戦後左翼思想こそ、日本男児、日本精神を否定し葬り去った戦犯ではないでしょうか。
■硫黄島(トウ)陥落
昭和20年(1945)2月19日開戦、3月26日集結。
日本軍戦力は2万2千余人。対する米軍戦力は11万人。
日本軍戦死者約1万8千人。米軍戦死者6800余人。
硫黄島は、日本本土の空襲に向かうB29を叩く基地として、日本には重要な拠点となっていました。
硫黄島が陥落する事は、本土が無防備となる事を意味していました。
米軍は、島の地形が変わる程激しい空爆を行いました。
日本軍は、島全体に縦横無尽のトンネルを掘り、神出鬼没のゲリラ戦で応戦し、米軍に対抗しました。
対する米軍は、ゲリラ戦に悩まされた結果、地下陣地の出入口から火炎放射器で攻撃する"焼殺作戦" を行いました。
米軍は圧倒的な破壊を続け、36日間の壮絶な戦いの末、昭和20年3月硫黄島(イオウトウ)を落とします。
死守しようとした日本兵約1万8千人玉砕。
米兵6千余人戦死。米国の海兵隊が英雄視される転機になりました。
米軍は、日本の輸送船2394隻を撃沈しました。この数は、日本の民間船の85%であり日本の輸送能力壊滅の状態を表します。
日本海軍は、米国の無数の輸送船のうち、日本船舶の被害数の1割にも満たない僅か98隻しか沈めていませんでした。
■壊滅的な東京大空襲・焼夷弾
東京は、終戦日までに100回以上の空爆を受け、死臭ただよう黒い瓦礫の山にされます。昭和20年(1945)3月10日、午前零時、空を覆う様なB29の大編隊280機から340機が低空から東京に浸入し民家の上に130万発(2千トン)という信じられない数の火災を引き起こす焼夷弾を降らせました。
真夜中の東京は、炎の海となり隅田川は煮え湯の様に沸騰しました。
特に向島、浅草は生き地獄で・・「あの日あの後も地下鉄は動いていた、我々は早稲田大学の院生で教授の家が浅草にあったので心配になって行く事にした。地下鉄駅へ降りて行ったら浅草方面から列車が入ってきた。列車が止まると・・皮膚が溶けた様に焼けただれた人が流れる様に出てきた。服からは煙が。人間の焼ける匂いは決して忘れられない」
黒焦げになった人間、灰になった人体、行方不明者のJapaneseの総数10万人以上。
米国は、「死者数30万人だ」と公言します。
■沖縄戦開戦
昭和20年(1945)3月26日開戦。
日本軍戦力は約11万6400人、米英軍約54万8千人。
日米戦最大規模の激戦地と言われています。
沖縄戦を指して"国内唯一の地上戦" と表現する事がありますが、これは樺太、千島列島の占守島、硫黄島での交戦があった事実を考慮すると、事実誤認と言わざるを得ません。
当初、沖縄防衛を担当する陸軍の任務は、飛行場建設とシーレーン防衛でした。
しかし、サイパン陥落から様相は転じ、日本軍は地上戦の準備に着手。
海上では特攻機、戦艦大和の特攻など決死の抵抗がなされました。
■戦艦大和炎上撃沈
日本側戦没者:約2千5百人
戦艦大和は、10年の歳月と巨額1億5千万円を費やし、広島県呉市海軍港で昭和16年12月、真珠湾攻撃直後に完成しました。
因みに同年の軍事費は国家財政の75.7%、大和は冷暖房完備、エレベーター付き、世界最大の7万2千トン、全長263mの不沈艦で日本海軍の誇りでした。
大和がある限り日本軍に敗北はないと誰もが信じていました。
その大和は、昭和20年4月乗員2774名と共に燃料4千トンを積込み、援護する零戦は1機もなく、僅か8隻の駆逐艦を率いて沖縄へ出向します。
この4千トンの燃料は、日本海軍が所持していた最後の燃料でした。
翌朝、沖縄まではまだ遠い奄美大島沖の海上で、獲物を探していた米空軍に捕まります。大和はグラマン1,000機の猛攻撃に晒され、魚雷12発を食らいます。
当時、魚雷1発で沈んだ戦艦は数多くありました。
昭和20年(1945)4月7日PM2時、大和はついに鎮魂の大爆発を起こし、2,000余名の水兵と艦長と共に深い海に沈んでいきました。
●戦艦大和の末路
ww2開戦時、日露戦争時の様な大艦巨砲主義、つまり大きな戦艦に大きな大砲を装備している軍が勝つと言う時代は終わりを告げ、戦闘機や航空機が戦争の主役に移行してきている事実を、日本軍の上層部はどうしても理解できませんでした。
ですから、世界最大の主砲46センチ3連装砲を搭載した史上最大の超弩級(チョウドキュウ)戦艦大和は、誕生と同時に、既に時代遅れの産物でした。
戦後歴史学の点から言えば、本来、ガダルカナル島、ソロモン海戦、ミッドウェー海戦などで大和こそ率先して大活躍しなければならない戦力でした。
しかし、大和は、ガダルカナル島では、自慢の砲戦を行う事なく活躍の機会を活かす事が出来ませんでした。
レイテ沖では、砲戦を展開するも、100発以上の主砲が全部的外れとなり、敵軍に1発も命中させる事が出来ないと言う大失敗を侵します。
また、レイテでの連合艦隊壊滅によって、軍上層部の方針が体当りで戦果を上げる「一億総特攻」と言う概念に切り替わると、残念ながら、戦艦大和も一億総特攻の先駆けとして沖縄戦へ向かった・・と言うのが大和沈没の舞台裏です。
国家予算の75%を費やした大戦艦は、零戦同様に、体当り作戦の道具とされたのです。
■小磯内閣から鈴木内閣へ
昭和20年(1945)3月、米軍の沖縄上陸を阻止できなかった事が主因となり、小磯内閣は総辞職。
その後を引き継いで、華族出身で軍人の鈴木貫太郎に大命降下が下り、鈴木内閣が発足し終戦まで続く事となります。
ベルリンのポツダムに集結した米英ソ(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)の首脳達は、「日本の無条件降伏」「戦争犯罪人の処罰」を骨子とする停戦合意を纏め、それを「ポツダム宣言」という形で日本政府に突きつけて来ました。
そのポツダム宣言を受諾するかどうかと言う決断を迫られたのが、鈴木貫太郎内閣(任期S20.4.7~8.17)でした。
鈴木は、政治家としては強運の持ち主でした。彼は武士としての教育を授けられていました。
敗戦直前の4月12日、米国のルーズベルト大統領(真珠湾攻撃時の米大統領で容共派、終戦時の米大統領はトルーマンでやはり容共派)が亡くなると、海外に向けて「私は深い哀悼の意を米国民に送るものであります」という談話を発表しています。
戦時中の国のトップが敵国に向けた発言としては異例でした。
戦後歴史学では、鈴木総理がポツダム宣言を黙殺した事が原因で、米軍は原爆攻撃を強行したとされます。
しかし、原爆攻撃の判断が下されたのは、鈴木が総理に就任する前である為、必ずしも黙殺が原因と考える事は出来ません。
■日活の経営再編とスター発掘
昭和20年(1945)4月、映画会社「日活株式会社」が営業開始。
戦時中でも映画会社は、営業を継続していたのです。
日活が、経営再編して本格的に息を吹き返すのは戦後の昭和30年代に入ってからでした。
日活の歴史は意外に古く、設立は大正元年(1912)9月10日。
当初の社名は、日本活動写真株式会社でしたが、その社名も変更された後のもので、元々の日活の前身となった会社は「Mパテー商会」と言う日本史上初の映画会社で、会社設立の目的は、辛亥革命の軍事費を映画の興行収入で稼ぐと言うものだったそうです。
一時期は、東宝、東映、松竹等大手映画会社と並び称される時期もありましたが、戦時中に製作部門を切り離し、配給部門のみ行う様になり、戦後は、大映やハリウッド映画の興行を主としていましたが、他社の隆盛と共に、総じて業績不振が長期に渡って続いた為、企業買収、転売、譲渡を繰り返す様になりました。
スター不在の日活と言う悪評を覆す為、日活は新人発掘に力を入れ、若者をターゲットにしたアクション映画や青春映画に路線変更しました。
宍戸錠、長門裕之、石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子、二谷英明、岡田真澄、吉永小百合等が大衆に受け始め、業績は上向きに改善します。
ギターを持った渡り鳥、夕陽ヶ丘の総理大臣、くいしん坊❗️万歳、太陽に吠えろ!、大都会、西部警察、銀座の恋の物語、池中玄太80キロ、嵐を呼ぶ友情、女の市場、戦争と人間、Star 千夜一夜、絶唱、夜霧のブルース、特捜最前線、マグマ大使、キイハンター、座頭市・・・。
彼等、日活俳優は平成の世になっても、芸能史に名を残す大物俳優となっていきます。
しかし、テレビの普及とアクション映画のマンネリ化や、看板スターの石原裕次郎、小林旭の肥満等が影響し、再度業績不振をきたします。
昭和46年(1971)から経営を盛り返す為、ポルノ映画に着手し「日活ロマンポルノ」を展開。ポルノ映画は、一般向け映画よりも、低予算で、一定の利益を得られ、実際、撮影期間や予算は一般映画の約半分でした。
しかし、今度はAVの浸透によりポルノ路線も不調となり、昭和63年(1988)、ポルノ映画の製作、配給に見切りをつけ、再度、一般映画の製作、配給を再開します。
平成5年(1993)、日活は会社更生法申請により事実上倒産します。
日活が、製作した代表作に、太陽の季節、狂った果実、嵐を呼ぶ男、青い山脈、上を向いて歩こう等々の作品があります。
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:vol.1参照