近代日本への道18 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese Big Picture First. w

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   Han-nichi is Never Over⁉️

This is a Fact

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "Back To 近代 Beginning"

 We are Sumer‐Japanese.

FunnyBomb.

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■Saipan(サイパン)島玉砕

(戦場:太平洋北半球マリワナ諸島の一つ。マリアナ諸島には他にグアム島、テニアン島、ロタ島があるが現在全てが米国領)。

   マッカーサー元帥指揮による勇猛果敢な海兵隊は、昭和19年(1944615、サイパン島(日本軍の重要基地)に猛攻撃をかけました。サイパンの日本兵31千人は23日間戦い続け、玉尽き玉砕しました。

 米軍の戦死者、約35千人。

   米軍は火炎放射器と爆薬で、着実に日本軍と在留邦人を島の南端、北端へ追い詰めていきました。

   77、日本人の子供達も母親と共に北へ追い詰められ、Banzai Cliff(マッピ岬) から次々と飛び降ります。

   その数およそ5千人。

   南雲中将、斎藤中将も相次いで自害します。

  サイパン沖での海戦も悲惨な結果となりました。

   日本海軍の航空母艦9隻の内、3隻は撃沈され、473機の零戦は956機のグラマンF6Fとの空中戦でほぼ全機撃墜されます。

   このサイパン島からボーイング社の新型B29爆撃機が、福岡、大阪、名古屋、東京へ空襲をかける為、出撃します。

   サイパンに続いて、グアム島も7月下旬に米軍に玉砕、占領されます。

   グアム島での日本兵18千人玉砕。

   サイパン、グアムは、B29が出撃する拠点となり、米軍にとって沖縄、日本本土への爆撃機が飛び立つ最重要拠点の基地となります。

 

ブレトン・ウッズ体制

 昭和19年(19447、米国のニューハンプシャー州ブレトン・ウッズに45カ国が集まって戦後体制を協議した国際会議がありました。

 翌年に発効されたのが、ブレトン・ウッズ協定と言います。

 具体的には、国際通貨基金協定(IMF)と国際復興開発銀行協定の総称です。

 協定の趣旨は、持てる国(連合国側)が持たざる国(枢軸国側)をいじめた為に、ww2が勃発したと言う反省の下、ブロック経済を辞め自由貿易を根幹とする戦後体制を作ると言うものでした。

 その後、ブレトン・ウッズ体制は昭和46年(1971のニクソン・ショックまで続きます。

 日本は「持たざる国」の側でしたが、自由貿易をして良いと言うのなら、とてつもなく強い国です。

 ただ、昔程強さが実感出来ないのは、日本国内にあった強い工場が外国、主に支那に拠点を移しているからです。仮にユニクロが支那の工場で生産しているものを全て国内で作って輸出するとしたら、日本に莫大な利益をもたらした事でしょう。

 ブレトン・ウッズ体制になって気づいたのは、日本と言うのは、天然資源、エネルギーでクビ根っこを押さえられた国だったと言う事です。

 日本のエネルギー問題が解消されたのは、戦後、中近東で想像を絶する量の石油が出てからの事で、それまでは米国が世界一の産油国で、単価も高く高級なものでした。

 中近東アラブ諸国で石油が出てから、値段も庶民が手の出せる価格まで下がったのです。

 

東條内閣総辞職

 サイパン玉砕後、東條総理と国務大臣の岸信介は衝突します。

 サイパンを失ったからには、日米戦争はやめるべきだと言う岸の意見と、徹底交戦を諦めない東條の意見が真正面から衝突したからです。

 戦後だから言える事ですが、奇しくも石原と岸の認識は天王山がサイパンだと言う点で一致します。

 東條は、激怒し、岸に辞表を求めました。

   しかし、岸は拒否します。

 すると東條は、権力に物を言わせ憲兵を岸の自宅に差し向けて脅迫します。

 石原の時と同じく、憲兵を圧力の道具に使ったのです。

 しかし、岸は脅迫に屈しませんでした。

   この時代、閣僚の任命責任は総理にありません。

   つまり、総理に任命権がないのです。

   よって、首相に異議を唱える閣僚が現れた場合、その閣僚が辞任しない限り、内閣は閣内不一致の責任により総辞職を余儀なくされるのです。

   岸は、その事を利用しました。

 

 統帥権を掌握し、一大派閥となり、憲兵政治により強大な権力を手中にしていた東條は、天皇陛下さえも危惧する存在となっていました。

 昭和19年(1944722東條内閣総辞職。

   東條と互角に渡り合い、閣僚ポストを固持する事により倒閣に追い込んだ岸の偉業は、政界の伝説となり瞬く間に広く天下に知らしめられました。

 後任には、朝鮮総督を務めていた小磯國昭に大命降下が下り、小磯内閣が発足しました。

 

■Peleliu(ペリリュー)の戦い

(戦場:南太平洋ミクロネシア地域パラオ諸島の一つ、ペリリュー島(現・パラオ共和国。戦中は天皇の島と呼ばれ、日本が連合国から委任統治をしていた))。

   昭和19年(1944915、米軍は、レイテ決戦の一環としてペリリュー島に上陸します。

 日本側戦死者約1万余人、米国側戦死者約2千余人。

   日本軍は、島内の洞窟500箇所余りを利用したゲリラ作戦で応戦します。

 政権が入れ替わったからと言って、戦局が好転する事はありませんでした。

 

   日本軍の基地があったペリリュー島では、日本軍は武器弾薬も食糧も補給されず、トーチカ、地下通路、洞窟、ざん壕などに籠城し、むごたらしい玉砕戦が展開されました。

   空爆、艦砲射撃、地下通路への手榴弾、火炎放射器、マシンガン等、圧倒的重火器を駆使して総攻撃されます。

   結果、約1万人の日本兵が戦死、対する米兵の戦死者は千人程だったと言います(諸説あり)。

   現地パラオ人の被害者は・・なんとゼロでした。連隊長・中川大佐等は自決を予感した様に「一緒に白人と戦う!」と叫ぶパラオ人を恫喝し、島から追い出したのです。

 負け戦の戦火に気の良いパラオ人を巻き込みたくなかったのです。戦後、親日国パラオには日本人墓地、ペリリュー神社などがあり、戦死した日本兵が祀られています。

 

■Leyte(レイテ)沖海戦

(戦場:現フィリピン共和国の島の一つ、レイテ島沖)。

   昭和19年(19441023日開戦、1025日終結

   日本にとって、フィリピンは南方の資源供給の中継地であり、要衝でした。

   1024、戦艦武蔵は、この戦闘により被弾しレイテの海に沈没します。乗組員約1023人が戦死。

   小沢機動部隊の空母4隻や他の戦艦も沈められ、連合艦隊はこの戦闘で事実上壊滅しました。

   この海戦には、戦艦大和も参戦していましたが、大和の主砲は100発以上敵艦隊に発射したものの、一発も命中しなかったそうです。

   制空権を取られていた日本軍は、空からの正確な測量が出来なかったからです。

 

十死零生、神風特別攻撃隊

   零戦(三菱)は、日本の技術の粋を結集した世界一の絶品でした。

 零戦は、航空母艦用に設計され真珠湾攻撃、アジア、太平洋空中戦で抜群の旋回性能を発揮し、鍛え上げられたパイロットは向かうところ敵なしで、米空軍は「ゼロを避けろ」と指令を出す程でした。

 

 

   しかし、米国はアラスカに不時着した零戦をグラマン社で徹底的に解体、分析し弱点を探し当てました。

   零戦の急所はガソリンタンクと操縦士の座席共に薄いアルミ製で、敵の弾が当たると爆発するか即死でした。

   グラマン社は零戦に改良を加え、米空軍は、グラマンF6Fヘルキャットを遡る事、昭和18年(19439に、南太平洋空中戦に登場させました。   

   空中戦で弾が当たってもグラマンは落ちなくなりました。

   零戦が負けだします。

 

To Be Continue

 

 

乱筆乱文駄文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:vol.1参照

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