近代日本への道17 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『Zipangu』Is Japanese Big Picture First. w

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "One More Time.Back To 近代 Beginning"

 We are Sumer‐Japanese.

(FunnyBomb).

 

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絶滅収容所犠牲者数の一般理解

   文献(ポール・ジョンソン著、ユダヤ人の歴史)によればガス室では、回数当たりに換算すると2000人/回を殺害する事が出来たと言います。

   トレブリンカ絶滅収容所には、アウシュビッツを上回る10箇所のガス室が設置されていたそうです。

   ここで意外な点を言挙げしますと、ナチス特別行動隊のうち、1/3の隊員がオーストリア人だった事です。

   又、6つの絶滅収容所の内、4つの施設の所長もオーストリア人だったのです。

   ある意味、独国よりも、アンチ・セミティズム(反ユダヤ主義)が酷かったのは、オーストリアだったのです。

   ルーマニア政府、ルーマニア人もユダヤへの憎悪だけは、独国に勝るとも劣らない勢いでした。

   独国同様、反ユダヤ政策を遂行していたのです。

   こうして600万人近くのユダヤ人が民族浄化されました。

   尚、大虐殺されたユダヤ人600万人と言う犠牲者数が、何かアウシュビッツやトレブリンカ等の絶滅収容所のガス室だけで生まれたかの様な誤解をする人もいます。

   

   筆者(ポール・ジョンソン)の記録によれば、ガス室1室で、12000人の殺傷能力を持ち、それがアウシュビッツ、トレブリンカの2箇所で13室あった。

   13室同時に1回執行したとしたら、死者数は26千人。

 勿論、13室同時となれば、1回死刑執行する毎に、26,000人の遺体をガス室から移送した後、次の26,000人を処刑すると言う作業工程になるでしょう。

   1ヶ月に25日稼働したとして、死者数は65万人。600万人が虐殺されたとしたら、9ヶ月強を要したと言う単純計算になります。

   しかし、ガス室は13室だけだったのでしょうか。違います。

 絶滅収容所は6施設ありました。筆者ジョンソンは6施設での死者数を総計537万人と纏めています。

   ・・・不毛で忌まわしい試算なので、辞めます・・・。

 ガス室の構造が、どの様なものだったのか、600万人の遺体はどう処理したのか、死体焼却場の性能や処理能力、具体的な処刑の工程がどうだったのか、そんな事は知りたくありません。

 仮に、ガス室での犠牲者数が537万人以下だったとしても、虐殺はガス室によるものだけでなく、それ以外に強制労働や1100人単位の銃殺刑や民族迫害なども行われていたのですから、南京大虐殺の様に否定する根拠が見当たりません。

 裁判で認定された犠牲者数が、大きく水増しされていたと言う事以外は。

 ただし、不可解なのは、SWC(サイモン・ヴィーゼンタール・センター。国際的な反ユダヤ主義を監視する団体。戦後、日本の雑誌「マルコポーロ」はSWCの抗議を受けて廃刊となった)が、後に犠牲者数600万人説を否定し、独国領に絶滅収容所はなかったと言及している事、ニュルンベルク裁判の検事にはソ連の共産党員がいた事、裁判の中で600万人説に対する反対尋問が一切認められなかった事、戦後のイスラエルの研究でも、当時の独国領内に絶滅収容所は存在しなかったと言う研究結果がある事です(出典:wiki

 「なかった」と言う意味が、元々なかったと言うのか、ナチスが隠滅したからなくなったと言う意味なのか。

 No.13では、各国の処刑率が90%だの、50%だのと文献(ユダヤ人の歴史)に基づいて説明していましたが、こうなってくると、これらユダヤ人の処刑率も再確認する必要があるかも知れません。

 しかし、戦後社会では、独国の法令上も社会生活を営む上でも、ナチのホロコーストを否定する事が、ご法度なのは現在でも変わりなく、個別的にナチの犠牲者となったユダヤ人遺族が多数存在する事は、否定出来ない事実です。

 日本史に戻ります。

 

連合艦隊総司令官・戦死

 昭和18年(1943418、ラバウル島から1機の一式陸攻が、護衛機を伴ってソロモン諸島に飛び立ちます。

   連合艦隊・山本五十六総司令官を乗せた、一式陸攻は米軍戦闘機に撃墜されました。

   総司令官を乗せた搭乗機は、ソロモン諸島の一つ、ブーゲンビル島に墜落します。

   山本五十六、殉職。享年59歳。

 

 山本は、大正8年(19195、駐米武官として、米国に赴任した折、国情視察をし、米国の圧倒的な経済力、軍事力を目の当たりにしています。

 その結果、山本は日本が米国と戦争をして勝てる相手ではないと痛感します。

 ですから、米国政策において、山本は南方の防衛線を本土に出来るだけ後退させ、初戦で有利な戦局に持ち込んだ状態で、米国とは早期和解に漕ぎ着けたいと思っていました。

 要するに、戦禍を拡大しインドネシア、ビルマ、ソロモン諸島等の防衛を維持しようとする東條や大本営参謀本部とは逆で、むしろ戦略的には石原に近い認識だった事が伺えます。

 もっと言えば、山本は対米戦争にも日独伊三国同盟にも反対だったのです。

 しかし、当時のマスコミも、世論も、まして参謀本部も早期和解に反対だったのです。

 

大東亜会議開催

   昭和18年(1943115、大東亜会議は、日本で開催されました。

   インド代表が、オブザーバー国を務めました。 

 世界史上初の東南アジアサミットとも言える画期的な国際会議で、発案者は重光葵(シゲミツマモル)外相です。

   各国の出席者は以下の通りです。

   China_支那:汪兆銘(オウチョウメイ)院長

   Japan_日本:東條総理大臣

   Manchuria_満洲:張景恵総理大臣

   Thailand_タイ:ワンワイ王子_タイ首相代理

   Philippine_フィリピン:ホセ・ラウレル大統領

   Burma_ビルマ:バー・モウ内閣総理大臣

   India_インド:チャンドラ・ボース仮政府首班:インド独立運動家

 

   議長国は、Japan代表、東條でした。

   昭和18年(1943116、大東亜共同宣言が全会一致で可決されました。

   東條総理の発想自体が、未熟かつ、無謀な点があった事は否定しません。

   しかし、EU(ヨーロッパ連合)も、昭和42年(1967に構想されてから52年余り経つものの、未だ完成していないどころか、英国はEUのデメリットを唱え離脱する始末です。

   国家間が連合を結ぶ事は、今なお容易ではないのです。

   大東亜共栄圏と言う言葉自体は、その目標範囲を"東亜" から"大東亜" に拡大した事を、第二次近衛政権下、当時の外務大臣・松岡洋右が記者会見で発表してから広く世間で使われる様になり、近衛政権が解散した後、東條政権下では、国会演説で公式に使う様になりました。

 

■Imphal(インパール)作戦

 昭和19年(194438日開戦、73日中止

 日本軍兵力は約92000人、対する英軍兵力約15万人。

 戦死者、日本軍約65千人〜72千人、英軍戦死者約12千人〜17千人。

   このほかに日本軍には、行方不明者が1000人以上いたようです(諸説あり)。

   ビルマ作戦の成功によって、ビルマの首都ラングーンを占領した日本軍は、見事に援蒋ルートを遮断するに至りました。

   しかし、それは陸路だけの話であって、空路の援蒋ルートは残されていたのです。

   日本軍は、連日、ビルマの制空権を争って英軍と空中戦を展開します。

   しかし、日本の優秀なパイロット達は、次々と撃墜され戦死した為、制空権を奪う事は叶いませんでした。

   仕方なく、日本軍は、英軍の補給基地のあるインパールへ陸路で進軍し英軍基地を地上戦で叩くと言うインパール作戦を立案します。

   戦後歴史学では、最も無謀にして、愚かな作戦と評価される戦闘です。

   日本軍が駐留していたラングーンからインパールへ陸路で進軍するには、約1200km間の距離を徒歩で行かなければなりません。

   しかも、途中には、標高2千メートル級のアラカン山脈がそびえ立ち、かつ軍隊が進軍できる様な道路など存在しないジャングルや河川を徒歩で漕いでいかなければならないのです。

   作戦の総大将、牟田口(ムタグチ)中将は、思い込みが強く高圧的な将校で「軟弱な英軍など、あっと言う間に倒してみせる」から、食料物資の補給は一切必要ないと豪語したそうです。

   又、牛や羊を運搬用として現地調達していたので、食料に困れば牛を殺して食料にすると。

 

無残な密林の敗走

   さて、現実に作戦は実行に移されました。

   運搬用と非常時の食料として同行した何千頭の牛、羊、水牛は、物資も背負っている為、足が鈍く、行軍の足手まといになると共に、アップダウンの激しい山脈や、道無き道のジャングルを容易に超えられるものではなく、制空権を握っている英軍からは空から丸見えの為、思うままに爆撃を受け、日本軍は逃げ惑う事となります。

   日本軍がインパールに到着した頃、牛や羊は、雨季の河川の増水による溺死や、山岳部での崖崩れや地滑り等で殆どいなくなっていました。

   更には飢餓とマラリア、赤痢などの疾病に部隊の殆どは侵され、補給がない事が悪影響し、飲食料は隊員各自のリュックに残った僅かなものしかありませんでした。

   何万人もの将兵が、飢餓と病気によって殉職し、生き残った将兵も殆どは戦傷病者となっていました。

   飢餓状態だった兵士は、弾尽き食料がなく、英軍が自軍の将兵の為に空から投下した補給物資を横取りしたり、息を引き取った同僚の体を貪る飢餓地獄にまで追い詰められ、日本軍は、戦争どころではなくなります。

   生きてインパールに着いた僅かな部隊は、総大将の意に反して、単独で撤退を決断し、散り散りとなり結局、作戦は大失敗インパールから撤退しました。

 

完敗の日本軍とインド国民軍

   来た道を徒歩で引き返した日本軍は、消耗激しくジャングルの中、ヒョウやハゲタカに襲われるなど傷病兵が続出します。

   英軍の追撃に負傷する兵、マラリア、赤痢で次々倒れて行軍から脱落する日本兵達。

   英軍は、空からの銃撃と地上戦での追撃を敢行すると共に、赤痢、マラリアで死んだ日本兵からの二次感染を防ぐ為、息のある兵諸共、ガソリンをばら撒き日本兵の死体を大規模に焼却しました。

   そんな中、決死の敗走を続ける日本軍でしたが、インパールを目指す往路の途中で餓死した者や、伝染病等で脱落した日本兵は、撤兵の時には既に腐乱死体や白骨死体と化していました。

   悲しい事に、同志の白骨死体が帰路の道標となった事などからも、この道を「白骨街道」と呼ぶ者もいました。

   インパール作戦は、チャンドラ・ボースを筆頭としたインド国民軍のバックアップ虚しく、無残な大失敗を期します。

   この作戦失敗を契機に、アウンサン将軍率いるビルマの国民義勇軍は、日本軍を見限り、英軍に寝返ります。

   しかし、ビルマにとってはこの事が、国の自主独立を遅らせる原因となっていきます。

   総司令官だった牟田口中将やインパールに関わった高級指揮官は、東京に呼び戻され指揮官を更迭、懲罰人事を受け、牟田口中将は予備役に左遷させられました。

 事実上の追放です。

 

 デリー軍事裁判の首席弁護人 パラバイ・デサイ博士のインド独立間際の言葉

   インドは、間もなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は、日本のお陰で30年も早まった。インドだけではない。ビルマも、インドネシアも、ベトナムも、東亜民族は皆同じである。インド国民は、これを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしよう。

 

   INA(インド国民軍)大尉 SS・ヤダフの言葉

   インドが、日本のお陰をこうむっている事は、言葉に尽くせないものがあります。偉大な貴国は、インドを解放するに当たって、可能な限りの軍事援助を提供しました。何10万人にも上る日本軍将兵が、インド国民軍の戦友として、共に血と汗と涙を流してくれました。インド国民軍は、日本帝国陸軍がインドの大義の為に払った崇高な犠牲を永久に忘れません。

 

To Be Continue

 

 

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:vol.1参照

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