空前絶後・豊臣政権11 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

 

・・『S.koreaIs Hell Korea‼️‼️

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   2020年(R2)Big ChinaSmall ChinaSpecialAsia3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。

   Sub Title "Back To 戦国 Beginning"FunnyBomb.

 

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関ヶ原前夜・反家康派結集

   前田はこの世を去り・・・

   三成の追放にも成功・・・

   家康は豊臣政権五大老の筆頭大名という地位に君臨し続け、豊臣恩顧の有力大名の支持も取り付けました。

   こうして、政権乗っ取りは家康の意のまま進行していきます。

   一方、家康によって追放された三成は、近江の居城・佐和山城で政権の動静を傍観しつつ、政権返り咲きと家康征伐の機会を伺っていました。

 

   慶長5年(1600711、三成は、佐和山城で大谷吉継と会談します。

   712、毛利方の僧侶・安国寺恵瓊(エケイ)、増田長盛とも密談を交わします。

   恵瓊は、僧侶でありながら、毛利方の軍事顧問的立場でもありました。

   中国大返しと言う離れ技は、恵瓊の仲介によって織田方と毛利方が和睦した事が基礎となって成り立っているもので、恵瓊にはその自負がありました。

   もっと言えば、秀吉が豊臣政権を成立させる事が出来たのも、自分のおかげだと言う自信がありました。

   だから、その豊臣政権が家康に乗っ取られている事が我慢なりません。

   恵瓊は、主君・毛利輝元が、三成側に味方し、打倒家康の挙兵を起こす際には、総大将となる準備がある事を伝えました。

   こうして、関ヶ原の合戦における西軍の布陣が固まっていきました。

 

   慶長5年(1600717、毛利輝元は、約4万の大軍を率いて大坂城に入城します。

   吉川広家は、従兄弟の毛利輝元が大坂城に入った直後から、家康に対し「輝元が総大将に担がれたのは恵瓊の策略によるもので、毛利家が家康殿に反抗する意図はありません。」と言う趣旨の密書を送ります。

   恵瓊と吉川広家には確執があったのです。

 

   又、西軍総大将の毛利輝元は、同日に"内府違い(ナイフタガイ)の条々" と言う箇条書きの弾劾文を全国の諸大名に送りつけます。

   これは、"家康が秀吉の命に背いた事実を指摘した" もので「家康は、他の大老と共に豊臣政権を支える立場なのに、前田利長を恫喝して人質をとったに止まらず、上杉景勝に軍勢を送ろうとしている」と言った内容で、毛利輝元、宇喜多秀家の二大老と、前田玄以(ゲンイ)、増田長盛、長束正家等の三奉行の署名が入った書状です。

 

真田幸村上田城

   真田家は、それまで徳川勢に仕えていましたが、三成が家康と対立して毛利輝元を担いで挙兵した事を知ると、豊臣勢、徳川勢のどちらが天下を取っても一族が途絶えない様に、長男・信之、三男・信勝等を徳川方に残して、真田幸村と真田昌幸の親子2人は豊臣方に転身していました。

   95、徳川秀忠軍は、真田幸村の居城・上田城で、豊臣勢に付いた真田昌幸、幸村親子の軍勢と交戦します。

   第二次上田合戦の攻防です。

   真田軍が優勢でした。

   秀忠は、父・家康からの関ヶ原参陣の要請を受けていましたが、上田城の戦で予想以上に苦戦した為、関ヶ原には遅参する事となり、真田軍によって大打撃を与えられました。

 

大津城攻め

   豊臣勢は、東軍に寝返った京極高次の居城、大津城を見過ごす事が出来ず、98、大津城城攻めを敢行します。

   大津攻めに、毛利軍から毛利元康(毛利元就の八男)を総大将とし、総勢15千人の軍勢が挙兵します。

   その戦列には、関ヶ原西軍のキーマン、立花宗茂の名もありました。

   立花は、豊臣勢が九州征伐の際、島津勢との合戦で戦功を上げ、朝鮮征伐では、明軍を撃破し天下に名を轟かせた名将でした。

   大津城は、東海道要衝の地で大坂城と美濃・岐阜城の中間地点に位置する為、大津城攻略は西軍劣勢の状況を覆す形成逆転を賭けた重要戦略でもありました。

   大津城を占領する事が出来れば、三成の居城、佐和山城への移動も容易となる為、京極高次の東軍造反と言うショックで西軍不利と言う固定観念に囚われた淀殿に、秀頼出陣と言う切り札を了承させる事が期待出来たのです。

   しかし、この大津城攻略戦に、15千人の兵力と毛利元康、立花宗茂と言う西軍のキーマン2人を出兵した事で、大津方面の軍勢が関ヶ原主戦場に参戦出来なくなる事態に繋がりました。

   この事が、西軍敗因の理由の一つとなっていきます。

 

天下分け目の関ヶ原の合戦・開幕

   毛利輝元は、西軍の総大将にも関わらず、大坂城に駐留し、城から出撃する事はありませんでした。

   慶長5年(1600915、ついに関ヶ原の合戦の火蓋が切って落とされました。

   家康率いる東軍約9万人、西軍約82千人が関ヶ原で対峙します。(人数には諸説あり)

   両軍は、共に午前6時頃に関ヶ原へ布陣を固めました。

   前日から降り続く雨と深い霧の中、視界が極端に良くありませんでした。

   見えない中での交戦となると、同士討ちの危険がある為、両軍共天候回復を待ちます。

   

   両軍の睨み合いが続きます。

   午前8、東軍の銃声が鳴り響き、それをキッカケに戦闘が始まりました。

   結果から先に言うと、この天下分け目の関ヶ原は、家康率いる東軍の大勝利で幕を下ろします。

 

関ヶ原・主戦場の前半戦

   福島正則軍、黒田長政軍等、徳川勢の東軍前衛部隊は、はじめ鉄砲の有効射程圏外の100メートル程度まで接近してから行軍を制止し、鉄砲隊のみを最前線へ移動させます。

   そして、少しずつ隊を前進させ射程圏内の50メートルまで接近したら射撃戦を開始する。

   対する西軍豊臣勢は、東軍が射程圏内まで入ってきたら応戦する。

   関ヶ原は盆地で、丘の高地に陣を置く西軍が、平地に展開する東軍を見下ろす事が出来た為、本来は西軍の方に分がありました。

   東軍は、無理に西軍に近づけば、長篠の合戦の武田軍の様に全滅する危険をはらんでいました。

   銃撃戦を繰り返すうち、東軍は劣勢となり、西軍が追撃態勢に移ると、東軍は後退。

   東軍は、別部隊を西軍に投入して、また西軍射程圏内まで近づくと西軍が銃撃戦を開始、東軍は後退すると言う攻防の繰り返しとなりました。

 

   西軍の敗因は、複合的な理由によるもので、単純なものではありません。

   又、僅か1日、それも915日朝に開戦して、その日の夜に集結するとは、誰もが想定しなかったと伝えられます。

   性能では世界一となった火縄銃、そして大砲などの銃火器が駆使された戦だった事、武力衝突以前の謀略戦が徹底されていた事などが大きな要因だと考えられます。

   しかし、兵力と統率力において、西軍は8月の段階で20万の兵力があったにも関わらず、総大将・毛利輝元の元に集結した西軍本陣は、大坂城から出撃する事なく、凡そ5万人の軍勢が大坂城内に待機していた事、田辺城(東軍・丹後国、城主・細川忠興)や、大津城(東軍・近江国、城主・京極高次)、そして北陸方面など各地に兵力が分散していた為に、主戦場・関ヶ原には4割弱の軍勢しか集まらなかった事、しかもその4割の軍勢も、半数は傍観を貫き、実質交戦した兵力は約38千人程度だった事も挙げられます。

 

関ヶ原・豊臣勢敗戦の序章

   対する東軍は、家康の総指揮の元に、士気統率も高く、全軍が火の玉となり連携して戦ったのです。

   西軍の主力となる軍勢は、石田三成軍、大谷吉継軍、宇喜多秀家軍、小早川秀秋軍、吉川広家軍、小西行長軍です。

   このうち、毛利方の吉川広家軍は、恵瓊が勝手に決めた戦にやる気がありません。

   小早川秀秋軍は、家康勢に寝返り、西軍の陣地に展開している自軍を懐から襲撃します。

   実は、三成は西軍の指揮官の様にドラマや小説等で扱われていますが、総大将はあくまで中国の覇者、毛利輝元で、三成自体は西軍の責任者でもなく、一軍団の長に過ぎず、三成の下知に従う大名はいませんでした。

   西軍は、小早川秀秋軍の裏切りも追い打ちをかけ総崩れとなります。

 

三成軍善戦

   西軍の中で最も敢闘していた部隊は石田三成軍です。

   三成は、優秀な指揮官に恵まれ、彼等の主君への忠誠心も高かった為、三成軍は決戦において奮戦する事が出来ました。

   三成軍の中で突出していた武将が、島左近で、島部隊は最前線において、東軍前衛部隊の細川忠興軍、黒田長政軍と交戦します。

   細川、黒田は武断派で、文治派の三成とは最も敵対していた武将だった為、激烈な戦闘が展開されます。

   それでも、三成軍は懸命な応戦を続け、戦況を維持します。

   一方の鬼島津(島津義弘)軍は、東軍が押し寄せれば迎撃戦はしますが、積極的な追撃戦に打って出ません。

   島津は、岐阜城陥落や自らの主張する戦略を否定された事が頭から離れず戦意喪失の状態にあったからです。

   つまり、戦況をほぼ傍観しているに等しい状態でした。

   小西行長軍は、朝鮮征伐からの帰国直後だった為、疲弊しており、やはり積極的な追撃戦を遂行していませんでした。

   この小西行長軍、島津義弘軍、吉川広家軍が決戦で戦略を遂行しなかった事、毛利元康軍が関ヶ原決戦に参戦できなかった事、そして小早川秀秋軍が東軍に寝返った事が西軍の大きな敗戦の原因に繋がっていきました。

   西軍首脳は、915日夜には佐和山城に撤退。

   翌朝には、一時的に息を吹き返しますが、917日に、東軍は三成の佐和山城を城攻めにします。

   西軍は、大坂城にて秀頼と言う「錦の御旗」を手中に収めていました。

   家康は、毛利輝元の動静を見守りつつ佐和山城攻めを継続します。

   大坂城は、簡単に落城しないからです。

   家康は、西軍総大将で大坂城に籠城する輝元に、本多忠勝、井伊直政の2人を交渉役として派遣します。

 

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出典:完全制覇  関ヶ原大合戦 外川淳著、関ヶ原合戦と石田三成 矢部健太郎著、その時歴史が動いた  Wikipedia Japan、豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会編者、逆説の日本史 井沢元彦著、秀吉の天下統一戦争  小和田哲男著

 

 乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)