・・『Zipangu』Is Japanese
Big Picture First.
Please Don't Korea❗️
Truth ・・真実は動き始めた
2020年(R2)、Big China、Small China(SpecialAsia)3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。
The XXX Files ・・・20th .
Future Generation !
真実と闘え・・・
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
Sub Title "Back To 戦国 Beginning"
(FunnyBomb).
■朝鮮撤退と家康・前田の豊臣政権
石田三成は、以前から秀吉の虎の威を借りて文治派を中心とした豊臣恩顧の諸大名を服属させようとしていた為、豊臣政権内の武断派と文治派の二極化は益々拍車がかかっていました。
因みに、武断派(武人)と文治派(奉行人)の違いの一つとして、武芸や槍働きを拠り所としている武断派と、謀略戦や頭脳労働を得意とする文治派と言う職業柄や習性等から来る人間性の違いがありました。
武断派に共通しているのは、尾張出身者が多く、北の政所おねとの親交が深い事。
おね自身も尾張出身です。
文治派に共通しているのは、近江出身者が多く、淀殿と懇意にしている事などがありました。淀殿も近江出身です。
徳川家や前田家は、武断派に属します。
三成は、朝鮮から豊臣勢を無事帰還させるまで、対立する武断派の家康とは表向きは協調路線を演じます。
慶長3年(1598)10月、豊臣艦隊は、島津義弘軍の奮闘により、朝鮮からの撤退をほぼ成功させます。
余談ですが島津は、薩摩の領主で鬼島津の異名を持つ戦上手の猛者でした。
幕末の名君、島津斉彬(ナリアキラ)は鬼島津の嫡流です。
朝鮮征伐をキッカケに表面化した武断派と文治派の対立は、帰国後、国内で加藤清正、石田三成、小西行長を矢面にして、更に激化していきます。
今や、豊臣政権は五大老筆頭の家康と、秀吉から秀頼の後見人役を託されると共に、家康に唯一対抗できる軍事力と経済力を持つ前田利家、この二人によるツートップ政治となっていました。
朝鮮から帰還した武断派の有力大名は、不満を三成に爆発させようとしましたが、五大老の前田が許しませんでした。
秀吉亡き後、武断派でありながら、派閥に囚われない加賀の前田を、三成も頼りにしていたのです。
秀吉逝去のチャンス到来で、次の天下布武を虎視眈々と狙う家康も、前田をあからさまに敵に回す事が出来ません。
五大老の地位は、そもそも奉行人(文治派)よりも上でした。
現代に例えると、五大老は大臣、奉行人は事務次官、総理大臣は秀頼だと言えます。
家康は、豊臣政権の起請文により、固く禁じられていた政略結婚を進める事でも、味方を増やす工作を実行します。
(起請文とは一種の誓約書で、神に誓って約束を交わした書状です。)
主に伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政、細川忠興、加藤清正、黒田長政、福島正則等との政略結婚が進められました。
これは、あえて起請文違反を続ける事によって、誰が味方で、誰が抵抗勢力なのかを見極める作戦でもありました。
■五大老・前田は死に三成は追放される
秀吉が逝去した翌年の慶長4年(1599)3月3日、秀吉の後を追うように加賀百万石の前田利家は大坂で死去します。
享年62歳。
当時には珍しい長身で、武断派にして槍の達人、生涯傾奇者(カブキモノ)と言う波瀾に満ちた人生は幕を下ろしました。
これで、家康の天下取りに大きな障害となる者は誰もいなくなります。
この時を待ちに待っていた家康は、挙に出ます。
前田逝去の翌日、親家康派の七武将、浅野幸長((ヨシナガ)北政所の浅野方の甥)、細川忠興、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、黒田長政(軍師・官兵衛の嫡男)、蜂須賀至鎮((ハチスカヨシシゲ)蜂須賀小六の孫)等、武断派が、文治派の筆頭五奉行の一人、石田三成を襲撃する為に決起を起こしたのです。
七武将(七将)は、ほぼ全員が秀吉子飼いの武将ばかりで、北の政所の息のかかった者ばかりでした。
それが、家康主導の謀反だった確たる証拠はありませんが、彼等は明らかに親家康派であり、家康が糸を引いていたと考えるのが自然でした。
現に、七武将はクーデターを起こしたにも関わらず何の罪にも問われていません。
三成は、窮地に立たされ、伏見城の家康の元に逃げ込みます。
頭に血の登った七武将は、家康に三成の身柄引渡しを要求します。
しかし、家康は、政治判断として三成の命だけは助け、代わりに、三成を五奉行の地位から更迭し、事件の責任を取らせて豊臣政権内部から追放します。
■家康の威嚇と加賀百万石前田の"まつ"
家康は、前田利家亡き後、息子の前田利長にも目を付けます。
家康は、書状を利長に送りつけます。
この時、家康は京都の伏見城に、利長は、前田利家の遺言により、秀頼を補佐する為、大坂城にいました。
書状の内容は次のような内容です。
「利長殿は、大坂城を出て国元の加賀へ帰るが宜しかろう❗️秀頼様の守り役は、他に誰か適当な者もいるから、利長殿が心配するに及ばん。」と。
一見すると、利長の労をねぎらう親切心とも取れますが、利長にとってはむしろ、自分への脅迫に聞こえました。
悩んだ利長は、加賀百万石の礎を築いた、母・前田のまつに相談します。
まつ様は、息子にこう答えます。
「若い利長殿では、到底老獪(海千山千と殆ど同意)な家康を抑える事は出来ない。それでも忠義の為、戦うと言うのなら、それは前田家の一族郎党を始め、多くの人々を無駄に死なせる事になろう。利長殿、其方(ソナタ)は加賀に帰りなさい。」と。
慶長4年(1599)8月28日、前田利長は、母・前田のまつを家康の伏見城へ一人残して加賀へ帰ります。
ところが、家康は、突如利長に謀反の兆候ありと唱え、前田家討伐の為、挙兵の準備をしました。
仰天した利長は、急いで家康の元に弁明の使者を送ります。
利長の名代「家康様を暗殺しようなど、某(ソレガシ)に、そんな謀反の心などある筈がありません。と我が主君は申しております。」
家康は使者に伝えます。
家康「それ程迄に、利長が無実であると言うのなら、ワシに従う印として母のまつ殿を人質に差し出せ❗️」。
利長にとって、加賀百万石の妻、前田のまつに「人質になってくれ」などと言える筈もありません。
利長は、加賀で家康征伐の挙兵を準備します。
京都の伏見城で、その報を聞いたまつは「戦乱の世を治めるのは、真の実力者でなければならない。それは、徳川家康であって我が子ではない。どんな無理を言われようとも、家康様に従わなければ前田家を滅亡させるだけの事。私が身を呈して、我が子に、それを教えるしかない‼️」と決断します。
慶長5年(1600)5月17日、亡き前田利家の正室まつは、"私が、徳川家の人質として家康様の伏見城へ向かいます。" と利長に伝えます。
加賀百万石のまつ様は、息子、一族郎党、ひいては前田の領国を守る為、自分が犠牲になったのです。
因みに、まつの残された人生は、それから以後、14年間(諸説あり)を江戸で暮らす人質生活に費やされました。
■陸軍参謀本部編纂の日本戦史関ヶ原役
関ヶ原については、明治期、あの陸軍参謀本部も分析研究していて、書籍として残しています。
その書籍を"日本戦史関ヶ原役" と言います。
その後の日清、日露、世界大戦の作戦立案にも参考とされたのでしょう。
因みに、"日本戦史" は、あの「坂の上の雲」「竜馬がいく」等で知られる歴史作家、故・司馬遼太郎が自作「関ヶ原」を執筆する際、情報ソースとして活用されています。
当時の参謀本部と言えば、エリート軍人集団ですが、そのエリート達によって編纂された"日本戦史" でさえ、関ヶ原については事実誤認が多数認められるそうです。
特に兵力です。
それだけ、中近世の合戦の兵力を計算するのは、非常に困難な作業だったと言う事です。
この投稿は、そう言った事を考慮し、各合戦での兵力、人数、又日付等は、基本的に"諸説あり" と言う認識、立場を取っています。
■北政所・於祢(おね)と淀殿
関ヶ原を語る上においては、武断派と文治派の対立もありますが、秀吉の正室・おねと、側室・淀殿の対立構造が影響しているのではないかと言う評価も定説となっています。
この二人は、いずれも秀吉の妻にも関わらず、全く立場が違います。
おねは、天文15年(1546年)生まれ(諸説あり)、才色兼備であると共に、10代の若い頃から内助の功で秀吉の出世物語を陰で支え続け、朝廷からの信頼も厚い人物です。
かたや、淀殿は、永禄10年(1567年)生まれ、亡き信長公の妹を母に持ち、鶴松、お拾い(秀頼の幼名)と言う世継ぎを産み、やはり美女の家系。
単純計算で、二人の年の差は、21歳です。
後世では、おねを"良妻" 、淀殿を"悪女" と言うイメージが一般に定着しました。
それを象徴するのが、「淀君」と言う呼び名でもあります。
しかし、淀君と言う呼称は、その由来から蔑称だと言う説が浮上した為、いまは使われません。
北政所から見れば、自分より21歳も若い淀殿は、疎ましく、口惜しい存在である筈です。
ここまでの条件が揃えば、時代が中近世でなくとも、一般的に対立するのは、ごく自然な現象です。
ただ、淀殿に対する憎悪が、戦の原動力となったのかどうかを知る術はありません。
出家した者が、政治や俗世の事に関与する事はご法度なのですから。
北の政所は、生涯子を授かる事が出来なかったのです。
それだけに豊臣家と養子縁組した武将には、実の子の様に慈しみ、子飼いの養子等もおねに対しては特別な愛情を感じていました。
小早川秀秋は、その最たる例です。
家康が、足繁くおねの元へ通っていた狙いがそこにあります。
小早川秀秋は、三成派として参戦しましたが、家康の事前工作によって家康派に造反したのです。
おねは、豊臣政権の延命や自分との親交が深い武将、近親者等を次の天下人とするよりも、あくまで次代の天下人に相応しいのは、家康だと言う前田のまつと同じ判断を下し、家康は、そのおねの口添えを利用して有力武将を徳川勢へ引き込んだと言う事が言えます。
北の政所には、太閤亡き後も絶大な求心力と人望があったと言う事です。
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:完全制覇 関ヶ原大合戦 外川淳著、関ヶ原合戦と石田三成 矢部健太郎著、その時歴史が動いた Wikipedia Japan、豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会編者、逆説の日本史 井沢元彦著、秀吉の天下統一戦争 小和田哲男著