空前絶後・豊臣政権2 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

 

   2020年(R2)Big ChinaSmall ChinaSpecial Asia3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちていた。

   The XXX Files ・・・20th .

Future Generation !

真実と闘え・・・

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   Sub Title "The Deep Impact"

 FunnyBomb.

 

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   秀吉は、織田家出仕の18歳当時、小者と言う身分から小物頭(コモノガシラ)、小者頭から足軽、足軽から足軽組頭(クミガシラ)と昇格していきました。そして、逆玉の輿により、初めて苗字を獲得したと言うのです。

 

   定説では、羽柴と言う苗字は、織田家家臣団の上司である丹羽長秀と柴田勝家から、一字ずつ貰って羽柴とした、と言います。

   しかし、それも疑問です。

   柴田と丹羽では序列が違い過ぎるからです。又、丹羽と柴田を尊敬していたから、羽柴と付けたと言ってしまうと、丹羽よりも序列が上の柴田勝家にとって、丹羽と同列に扱われると言うのは、不敬に当たります。

   第一、柴田の他にも前当主・織田信秀時代からの重臣、林通勝や佐久間信盛等がおり、彼等の反感を買う危険もあるからです。

   羽柴は端柴(ハシバ)ではないか。

   そうであれば、説明が付きやすいのだと言います。

   山の端に落ちている柴木の様なハンパ者と言う意味になるからです。

   この端柴、ハシバ論は荒唐無稽なものではありません。

   当時、低所得層の民の間では、ハシバ売りと言う行商が存在したのです。

   あの「質素・倹約・勤勉」で日本人のモデルの象徴とされた江戸時代の二宮金次郎もハシバ売り、二宮が背負っていたのは、焚き木でした。

   ハシバ売りとは、"焚き木売り" の事です。

   つまり、羽柴は、"端柴" ではないか。

 

   では、秀吉と言う名前はどうなのか。

   この点について、あの「信長ごろし、光秀ではない」の著者であり、秀吉と同じ尾張出身の作家、八切止夫氏がこう言っています。

   "ヒデヨシ" は、"ヒエヨシ" が転化した呼び方なのではないかと。

   稗吉(ヒエヨシ)。中世の時代は、凶作による飢餓などは珍しくはありませんでした。

   そう言うところから、米は食えなくとも、せめて稗くらいは・・と言う願いから付けられたと。稗は、今の飽食の時代では、殆ど見られませんが、ついこの前の、昭和初期の頃までは、貧しい庶民の家庭では普通に米の代用として、食されていたのです。

 

   古来より、日本人は、言葉を万物に当てはめる際は、漢字を優先し、後に字の読みを割り当てるのではなく、言葉の響き、読み方を優先し、その後に漢字を当てはめると言う思考があった事を考慮すると、あながち間違った理論ではないと思います。

   外字が良い例です。タイフーン(英語)が先にあって台風。テンプラ(ポルトガル語)が天婦羅。アメリカは亜米利加。アジアは亜細亜。スメラミコトは"天皇"

   言葉の響きが優先で、その後漢字・文字を、響きと辻褄があう様に割り当てた事例は他にもあります。

 

   "羽柴秀吉" "端柴稗吉" だったのではないか。

   皆様方より、ずっと卑しい身分の出でございます」と言う、秀吉流の保身術だったのだと筆者は言います。

   スピード出世を妬む同僚や上司の憎しみを和らげる作戦だったのではないかと言われます。

 

﹅主君草履取り

   ある寒い朝、秀吉は信長の足元に草履を差し出します。

   草履が温かいぞ。サルめ、尻に敷きおったな。」と信長が怒ります。

   秀吉は「めっそうもありませぬ。お殿様のお履物が冷とうてはと。懐に入れて温めておりました。」と言いました。

   有名な草履取りの逸話です。

 

﹅清洲城壁修復

   清洲城の城壁が大雨で崩れた時は、復旧がはかどらない事に苛立った信長が、普請奉行を呼びつけて怒鳴っていました。

   何をやっている。塀の修復が一向に進まぬではないか」。

   秀吉が信長に聞こえる様に呟きます。

   これ程の塀、3日もあれば出来上がりましょうものを・・」。

   信長「何。サルならば、これが3日で修復出来ると申すか?」。

   秀吉「お命じとあらば、3日程で必ずや仕上げてご覧にいれましょう。」と。

   修復を命じられた秀吉は、ただちに集まった人夫を組分けして、工事を請け負わせます。

   秀吉は、川並衆等にこう命じます。「期限は3日限りだ。間違いなくやり遂げるのだ。首尾よく完成させた順から褒美の銭を取らせるぞ。」。

   秀吉は、昼夜を問わず工事の最中、自ら夜食も作って人夫達に差し入れました。

   細やかな配慮をした秀吉の目算通りに、塀の修復は、予告通り3日で仕上がりました。

   信長は「猿め、やりおったな」と秀吉を見直します。

 

﹅長短槍試合

   これは、合戦において長短の槍、どちらが有利であるかを証明する試合が行われた時のエピソードです。

   武家は、「足軽には柄の短い槍が扱いやすい」と言い、秀吉は、「槍の柄は長いだけ有利だ」と主張して意見が衝突します。

   秀吉は、足軽達と濁り酒を飲みながら、車座を組んで議論を始めます。

   難しい事ではない。柄の長い槍だから、長い槍が先に相手に届くのが道理だ。さすれば、必ず勝てる」。

   結果は、やはり秀吉の目算通りでした。

   この結果を受けて、信長は長槍隊を編成したと言います。

   ただし、このエピソードには疑問が残ります。何故なら、織田軍の長槍隊は、信長が自身の義父・斎藤道三の軍勢が、長槍の装備をしていたのを見本にして取り入れたと言う説があるからです。

   ただ、仮にそうだとしても、「実践に登用する為に、確認の意味で」槍試合をさせたと言えば理屈は合いますが。

 

墨俣一夜城

  永禄3年(15605、美濃の斎藤義竜の稲葉山城を攻略する際、墨俣城(現・岐阜県安八郡墨俣町)を築城する為、佐々成政が普請に取り組みましたが、斎藤方の軍勢に阻まれ築城は失敗に終わります。

   墨俣城は、それまでも織田家の重臣、佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益等が取り組んでいましたが、やはり斎藤方の騎馬軍が襲来し、ことごとく妨害された為、築城は暗礁に乗り上げていました。

   永禄4年(1561秀吉は、足軽組頭から足軽大将(百人頭)に昇格した事を機に、兼ねてから恋心を抱いていた織田家中の上司の家柄の娘、浅野おねと結婚します。

   秀吉25歳、おね14歳の頃です。

   祝言は、同じく織田家の親友であり武家の家柄の前田利家夫妻と共に執り行います。

   秀吉、前田共に、戦国時代には珍しい恋愛結婚であると共に、極めて質素だったと言います。秀吉との結婚に反対していた浅野家からは、誰も祝言に出席しなかった様です。

 

   永禄5年(15625、信長は前年に斎藤義竜が死去したのを機に美濃に攻め入りますが、敗退します。

   秀吉は、難航する墨俣築城について、信長に進言します。

   墨俣に、出城を築城するには、木曽川を生活源にしている川並衆を味方に引き入れる事です」と。

   そして永禄9年(1566、美濃攻略が完全に足踏み状態に陥った事を見て、秀吉は「それがしにお任せを❗️それがし、墨俣で死ぬ覚悟で普請に当たりまする」と信長に宣言します。

   信長の命を受けて普請を任された秀吉は、例によって川並衆に相談します。

   秀吉「小六殿。何としても墨俣に砦を築かなければならぬ事になり申した。褒美はたんとはずむで」。

   蜂須賀「これまでもお主には、心底我を遇する信義の心があった。命を惜しむ者ではござらん、墨俣の事、引き受けた」。

   前野将右衛門(長康)「2千人程は集めねばなるまいか。馬止めの柵木は、イカダに組んで夜中に流すのだ。」。

   川並衆は、織田家とは、そりが合いませんでした。

   蜂須賀小六率いる川並衆等は、命知らずの猛者ばかりで、実際、桶狭間の際にも、敵軍今川勢の懐に入り込み調略に活躍していましたが、信長は褒美を与えていなかったのです。

   しかし、正直で飾り気のない秀吉とは、気心も知れた旧知の仲で盤石の信頼関係があった為、この秀吉と蜂須賀の強力な信頼関係によって、いよいよ墨俣一夜城の計画が再始動しました。

 

   墨俣城建設の難しさは、途中まで出来上がった砦を、斎藤龍興等の騎馬隊の妨害により破壊される為、またゼロからの普請を行わなければならない点にありました。

 

   川並衆と秀吉等は、夜の木曽川に、密かに無数のイカダを流し、スピーディに資材を搬送します。

   資材が到着するや、すぐさま馬止めの柵を二重に張り巡らし、川並衆は鉄砲隊と普請部隊に分かれて築城に取り掛かります。

   予想通り斎藤方の騎馬隊、数千人が襲来し、川並衆の鉄砲隊が応戦します。

   敵騎馬隊は、馬止めの柵に阻まれます。

   川並衆鉄砲隊は、褒美欲しさに武将の首を取ろうともせず、兎に角普請の妨害を食い止める為、敵兵に鉄砲を撃ちまくり、負傷者を出した斎藤方は、味方を見捨てて撤退します。

   川並衆は、寝る間を惜しんで墨俣城を完成させました。

   墨俣一夜城が完成の報を受けた信長は、柴田軍、丹羽軍、佐々軍等、3千余名の軍勢を率いて現地に到着すると「でかしたぞ猿。よくぞこれ程まで。祝儀じゃ」と言って、金50枚、銀100枚と3千俵の米を褒美に取らせたばかりか、墨俣の護衛に佐久間軍、滝川軍の手勢800人を秀吉の配下に付けたと言います。

   秀吉は、それらの褒美を惜しげもなく川並衆等に分配しました。

   人心掌握の為には惜しみなく褒美を消費するのが秀吉流でした。

   稲葉山城を落城させ、美濃を攻略した信長は、同じ場所に城を築き、岐阜城と改め、新たな織田家の居城としました。

 

   後世、秀吉の軍略は次の様に評価されます。

   「大胆にして壮大。繊細かつ綿密」。

   敵軍が予期せぬ前に、堅固な包囲網を作り上げてしまう。優れた構想力と実行力、決断の早さ。電光石火の速攻力。

 

To Be Continue

 

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出典:豊臣秀吉 天下人への道 歴史と文学の会 編者   逆説の日本史 井沢元彦著      秀吉の天下統一戦争  小和田哲男著   Wikipedia Japan

 

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

(あれっっ???半分にして聞いて下さいね)残念ながらまだ大脳真皮質は正常(だと思いますが)・・・