・・・Welcome To The Real Worlds!!!
・・『Zipangu』Is Japanese
Big Picture First.
Truth ・・真実は動き始めた
The XX Files ・・・17th .
Future Generation !
真実と闘え・・・
Zipangu Independence Banzai⁉️
Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️
We are Sumer-Japanese....
Sub Title "Tabla Lhasa"
■第15話 神功(ジングウ)皇后の遠征
第14代仲哀天皇(チュウアイ)の妻、神功皇后に神が降り朝鮮半島を攻めろとお告げがありました。
神託を疑った仲哀天皇は、神の罰を受けて亡くなります。
神功皇后は、神の意志に従い軍勢を率いて半島に出航しました。
その勢いに押され新羅(シラギ又はシンラ)は降伏を申し出ます。
百済(クダラ)も、毎年貢物を届ける事を約束しました。
遠征を終え、九州に帰還した皇后は、後に応神(オウジン)天皇になる品陀和気命(ホムダワケノミコト)を出産します。
朝鮮遠征の前に仲哀天皇の子を身ごもっていたのです。
一方、大和では神功皇后と品陀和気命を抹殺して王位に就こうとする勢力が謀反を画策します。
皇后は、彼等抵抗勢力を倒し、大和へ帰って品陀和気命の統治を補佐しました。
※最古の朝鮮出兵:
物語に出てくる朝鮮出兵は、概ね事実であると共に、確認できる最古の朝鮮出兵だと思われます。
当時4世紀から5世紀の間は、朝鮮半島は三国時代を向かえ、高句麗(後の高麗)、百済、新羅が覇権争いをしていました。
高句麗は、三国の中でも最大勢力で、百済、新羅は高句麗に圧迫されていました。
物語の文脈では、まるで大和が朝鮮を支配する為に侵攻したかの様にも読めますが、現実は高句麗に圧迫されていた百済の救援要請に大和が応えて遠征したと言うのが実情です。
だとすれば日清、日露の時と同じベクトルが働いたと言えます。
魏志倭人伝とは、支那中共の歴史書「三国志」の中に出てくるお話です。
その中に登場するのが「卑弥呼」です。
日本書紀の文中には、卑弥呼こそ神功皇后であると示唆する文脈が見られます。
しかし、未だ卑弥呼の確かな素性、邪馬台国の現実の位置は特定されていません。
よって神功皇后の実在性も低いと解釈されています。
■第16話 応神(オウジン)天皇と3人の子
神功皇后の子は、即位し応神天皇となりました。
天皇は、大山守命(オオヤマモリノミコト)、大雀命(オオサザキノミコト)、宇遅能和紀郎子(ウジノワキ・イラツコ)と言う各々が異母兄弟の息子達を重用しました。
そして宇遅能和紀郎子を皇位継承者に定めます。
応神天皇の時代は、穏やかな世の中でした。
朝鮮半島から大勢の渡来人がやって来て、先進文化を伝えました。
その中には、秦(ハタ)氏や漢(アヤ)氏と言った後に有力豪族となる者もいました。
彼等は渡来人であって大和民族ではありませんでした。
実のところ、彼等も朝鮮戦争の際、国を棄て密航して来た大量のKoreanと同じで、「その当時の亡命者」だったと言うのが今では定説となっています。
但し、秦氏の出自は現代においても謎のままです。
ある研究では、朝鮮半島から渡ってきた渡来人だからと言って朝鮮人ではないとされます。
秦氏(ハタシ)は、Koreanではない、では何人か⁉️何故、秦氏のハタは、秦の始皇帝の「秦」と同じ表記なのか❓一説には、秦氏が日本に渡来した後、皇族のシンボルが「菊の御紋」に成ったとも。Diaspora(離散)したユダ国の12氏族だとも、最近ではヘブライ人だと言う説も浮上・・・。
話を戻します。🙇♂️🙇♂️🙇♂️
応神天皇が崩御します。
すると大山守が王位を狙って動き出しました。
宇遅能和紀郎子は、その陰謀を阻止しますが義兄に大雀に天皇の座を譲ると言い始めます。
が、大雀は固辞を続け皇位継承は行ったり来たりを繰り返します。
皇位継承は迷走を繰り返しましたが、後に宇遅能和紀郎子がなくなった為、大雀命が天皇に即位する事となりました。
日本書紀の記録では、応神天皇の息子、宇遅能和紀郎子(ウジノワキ・イラツコ)の死因は自殺だったとの事です。
■第17話 仁徳天皇と皇子達の争い
国民が貧しいと税を免除し、宮殿が傷んでも直さない、そう言う第16代仁徳天皇は聖帝と呼ばれていました。
大規模な減税によって税収入が枯渇した為、修繕費を賄えない宮殿は、あちこちで雨漏りしていたそうです。
それでも天皇は、宮殿の修理より臣民の窮乏を救う方が先だと税の徴収を再開しません。
民は、口を揃えて「聖帝の御代」と称賛しました。
一方では、皇后の嫉妬に悩まされ、召した黒日売(クロヒメ)は皇后を恐れて故郷に帰ります。
女鳥王(メトリノオウ)も皇后の嫉妬を理由に求愛を拒絶。
女鳥は、速総別王(ハヤブサ・ワケノミコ)を選んで天皇の抹殺を画策しました。
この事から、天皇は女鳥と速総別を死刑にするしかありませんでした。
仁徳天皇が没すると、長男が皇位継承し、第17代履中(リチュウ)天皇が即位しました。
ある夜、天皇が宮で就寝中、皇位を妬む弟が宮に放火します。天皇は、難波の宮を脱出し大和へ向かいます。
一行は、何とか石上神宮迄辿り着きます。
天皇の身を案じた別の弟、蝮之水歯別命(タジヒノ・ミズハワケ・ノミコト)が石上神宮に馳せ参じます。
疑心暗鬼の天皇は、弟を信用できません。
身の潔白を証明する為、水歯別は謀反人の弟、墨江中王(スミノエノ・ナカツミコ)を倒そうと難波の宮へ出陣します。
中王(ナカツミコ)を無事に討伐した水歯別は、反乱軍を一掃する事に成功しました。
履中天皇は、難波には戻らず磐余(イワレ・奈良県)に宮を開き統治を再開しました。
履中天皇が崩御すると、水歯別が皇位継承し、第18代反正(ハンセイ)天皇として即位しました。
※古墳:
仁徳天皇陵は、クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と並び世界三大陵墓として数えられる大規模な建造物です。
天皇陵、天皇のお墓、ま、古墳ですね。
現実の仁徳天皇陵は、国有財産として宮内庁が管理しており、又、考古学会は仁徳天皇の陵墓と言う見方に否定的な学説も存在します。
※皇記:
最近、皇紀と言う言い方で暦を読む方がチラホラ見受けられますが、皇紀と言うのは、神武天皇が即位した(とされている)BC660年1月1日、新暦では2月11日になりますが、2月11日は建国記念日として祝日になっています。
このBC660年をキリスト暦(西暦)の代わりに紀元とする暦の事で、実は明治時代から使われていた和暦の事になります。
つまり、今年・平成29年は皇紀2677年の年に当たります。
出典:地図と写真から見える古事記・日本書紀(山本明著)、wikipedia japan、現代語・古事記(竹田恒泰著)
乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)