ユダヤ神の潮流vol.10 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・・Welcome To The Real Worlds!!! 

・・『ZipanguIs Japanese Big Picture First. 

Heart & ・・JapaneseLegend

Asian Boogey Men

South Korean

 

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Korean Brain

Please Don't Korea❗️

무섭지 않아요)

The Danger Increased More・・

Subtitle"Sumer・Babylonia03"・・

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バビロニアから新バビロニアへ

   BC626、カルデア人の将軍、ナボポラッサルがバビロンの王座に就きます。

   ここから、新バビロニアの時代が幕開けとなります。

   ナボポラッサル王は、後の歴史には諸民族の間に知られる事のなかった小人だと評価されます。

   ナボポラッサル王はこう述べています。

   「余は、神々の助けを受けて敵対する者を圧服し、余の敵を地面に叩きつけた。余は、遥か昔より諸民族全体を支配し、民をその苛酷な軛(クビキ)の下に抑えつけたアッシリアをアッカドの地から斥け(シリゾケ)、そして民の軛を払いのかせた」。

   次の言葉は、碑文にある記録です。

   アッシリアの国の部隊がニップール(都市名)に進軍し、ナボポラッサルは彼等を前にして退いた。しかし、アッシリア軍とニップールの住民は、彼を追ってウルクまで進軍した。彼等はウルクでナボポラッサル王と戦って、今度は彼等がナボポラッサルを前に退いた。アヤルの月(4月~5月)にアッシリア軍はアッカド国まで退却した。タシュリトゥの月(9月~10月)の12日目、アッシリア軍がバビロンに進撃し、同日バビロニア人がバビロンから退いた時、彼等はアッシリア軍と戦い、そしてアッシリア軍に大きな敗北をこうむらせた。彼等は、アッシリア軍を掠奪した。一年の間、(バビロニア)国には王が不在だったが、アラヒサムナの月の26BC626.11.23にナボポラッサルがバビロンで王位に就いた」。

 

   「バビロンには一年の間、王が不在だった」とありますが、これはアッシュールバニパル王の死後、王位継承がされなかった事を意味しているそうです。

 

   碑文にある年代記は、ナボポラッサル王の息子、皇太子のネブカドネザルに言及します。

   BC607、皇太子ネブカドネザルは既にニネヴェ(アッシリア国の首都)征服に参戦していたと考えられますが、ナボポラッサル王と、皇太子ネブカドネザルはそれぞれ独自の軍を指揮し、彼等が力を合わせて山岳民族と対峙する戦争が数回勃発します。

   その後、皇太子は自軍を率いてバビロンに戻りますが、ナボポラッサル王はユーフラテス川右岸、カルケミシュとバリ川の河口との間にある都市、キムフの征服によって、エジプトの橋頭堡(キョウトウホ)カルケミシュに一歩接近します。

   しかし、BC606年2月、ナボポラッサル王が立ち去った後、エジプト人が都市キムフを攻撃し、王不在のバビロン駐留軍を圧倒します。

   翌年BC605、年老い、恐らく重病を患っていたナボポラッサル王は愛する息子、皇太子のネブカドネザルに全バビロニア軍に対する指揮権を移譲し、自身はバビロンの宮殿に隠居します。

   皇太子ネブカドネザルは優秀で、直ちにエジプト軍と決戦戦争を始める絶好の機会を掴みました。

   皇太子は、都市カルケミシュに進軍します。

   エジプト・アッシリア連合軍と皇太子ネブカドネザル率いる新バビロニア連合軍(バビロニア国・メディア国・スキタイ国)は激突しました。

   エジプト連合軍は敗戦し退却します。

   これを「カルケミシュの戦い」と言い、エジプトは、この敗戦をきっかけに近東、特にシリア・パレスチナ進出への足がかりを奪われました。

   ナボポラッサル王の皇太子は、ネブカドネザル二世として正式に王位に就きます。

   この「カルケミシュの戦い」の模様は、旧約聖書、エレミア書第46、又、列王記第24にもはっきり記録があります。

 

 

新バビロニア

  ネブカドネザル二世

   私はネブカドネザル、バビロンの王、謙虚にして献身的な者、偉大なる神に畏敬を抱く者、高貴な聖職君主、エサギラとエジダ神殿の維持者、ナボポラッサルの息子、バビロンの王である~。

   この文章は、実際に発見された無数の碑文に書かれている言葉だそうです。

   勿論、日本語で記されている訳ではないので、ニュアンスは若干ズレているのかも知れません。

 

   ともあれ、カルケミシュの戦いに勝利した新バビロニアは、エジプト、エドム、モアブ、フェニキア連合国、そしてユダ国を懐柔させる事に成功し、それらの国々、そしてヒッタイト(ハッティ)国及びその同盟国から年貢を徴収する事としました。

   しかし、エジプト、ユダ国は反抗の機会を狙っていました。

   BC59812、ネブカドネザル二世は軍を率いてユダ国に出陣します。

   バビロニアの軍が襲来する事は、何故か預言者エレミヤによって、遥か前に予告されていました。

   ユダヤの伝承では、ネブカドネザル二世がユダヤの地を征服しようとしたのは、ユダヤ神のヤハウェの御告げ、即ち神の御告げによるものだと説明されます。

   その頃、ダビデ王によって統一されたユダ・イスラエル国家は、ソロモン王の死後、再び分裂の危機を迎えていました。

   分裂したその後もユダ国・イスラエル国の両国は、同胞であるにも関わらず互いに内部抗争を繰り返していました。

   内乱により国力が衰退していたユダの地が外敵の餌食にされるのは、ある意味自明の事でした。

   イスラエル国は、アッシリアに潰されました。

   BC612、ネブカドネザル二世の父、ナボポラッサル王(新バビロニアの王)がアッシリアに勝利した時、ユダ国はバビロニア軍の勝利を祝ったと言います。

   当時のユダ国の王は、ヨシアでした。

   ヨシア王は、申命記の改革、所謂ユダヤ教の改革を断行中でした。

   その内容は、都市エルサレムとその周辺に蔓延していた非イスラエル的な礼拝を根絶し、ヤハウェ礼拝の集中化を主とする改革でした。

 

◆エジプト人裏切り

   ユダやエジプトの指導者は、来るべき外敵の脅威を予感し、敗戦したアッシリアの残党を支援していました。

   エジプトは、来るべき破局に備えアッシリアの残党以外にも同盟者を探していました。

   そして、エジプトの当時のファラオ、Necho (ネコ二世、エジプト読みでNekau.BC610595)は、ユダ国ヨシア王の息子、つまり皇太子エルヤキムに目星を付け、彼を勝手にユダ国の新王に即位させてしまいます。

   ユダヤ教の申命記改革を断行するヨシア王は不遇にもファラオによって葬られました。

   ファラオ(Nekau 世)の命によって、ユダ国の皇太子は、エルヤキムと言う名前もエホヤキムと言う名に改名させられてしまいます。

   こうしてユダ国は、エジプトの属国とされてしまいました。

   簡単に自国をエジプトの従属国としてしまった新王エホヤキムは、エジプトの衛星国としての政策を実行します。

   こうした他国に阿るエホヤキム新王は、自国民から嫌われていました。

   預言者エレミヤは、エホヤキム政権を徹底して批判し、その父、ヨシア王が断行していた宗教改革を継続すべきだと各地で説きました。

   BC601、一度エジプト軍(ファラオNekau )がバビロニア軍(Nebuchadnezzar )に勝利し、エジプトはバビロニアの支配から離脱しましたが、ユダ国はなおも親エジプト政策を継続し、バビロニアの支配も受け入れます。

 

To Be Continue 

 

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出典:バビロニア・古代メソポタミア永久の夢の果てに(Petra Eisele著、片岡哲史訳)、wikipedia japan