昨年から調子が悪く、橈骨神経麻痺と診断されてはいたのですが、日常生活が送れないまでに症状が悪化しながらもお医者さんからは橈骨神経麻痺からの鬱陽だと診断されていました。
しかし、年明けには首から下が完全に動かなくなり、驚いた従姉夫婦が病院へ連絡しても心療内科を紹介されたそうです。
彼女達もこの時点でやっとおかしいとは気付いたものの、精神的なものであってもこの状態では家に置いておけないから(日常生活が困難な為、年末から従姉宅でお世話になっていた)、どこか紹介してくれ!と頼み込んでやっと現在の病院へ辿り着き、そこから沢山の検査をした結果、CIDP(慢性炎症性脱髄性多発神経炎)と診断されました。
まだ歴史が浅く、日本では約10年前に初めて患者数が把握されたような病気で、ギランバレー症候群の慢性的な症状が特徴です。
ギランバレーが発病から数日で体に力が入らなくなる病に対し、CIDPは数週間から数ヶ月かけて緩やかに進み、再発・再燃を繰り返します。
治療法はいくつかあるのですが、まだそこまで研究が進んでいないのか確立されてなくて、ギランバレーが寛解(再発しやすい病気が一時的あるいは継続的に軽減した状態)するのに対し、CIDPは慢性というだけあり完治・寛解はしない病気です。
患者数が少なくまだ新しい病気ですから、お医者さんでも実際に診察をしたことがない人がほとんどでしょう。
ましてや町医者では、その名前すら知らない人もいるかもしれません。
まぁ、この病気は知らなくても、毎日見ていれば様子がおかしいことは分かるはずなので、従姉達は何故もう少し早く大きな病院へ連れて行かなかったのか?とは思うのですが…。
叔母は私の母の妹なのですが、母方の血縁者は、母は悪性リンパ腫で亡くなり、祖母も(死因は違いますが)悪性リンパ腫、祖母の妹は乳癌…と癌家系。
だから、私を含め、叔母自身も癌になる可能性はいつも頭の片隅にはあったと思います。
それがこのような病気になるなんて、私達はもちろん、本人も思ってもみないことでした。
現在は、グロブリン療法とステロイド療法の効果で、手に痺れや麻痺があるものの、なんとか自力で個室内は歩けるまでに回復しています。
しかし、病気の勢いが強くこの状態がいつまで続くのか分かりません。
グロブリン療法で一時的に状態が安定したものの、治療が終了して3日程度で症状が悪化したので、今はステロイド療法をしているわけですが、このステロイドを減らして行っても今の状態を保つ事が出来るのか経過を見る必要があり、入院がいつまでになるのか、もし症状が緩和して自宅へ戻ってもいつ悪化するのか、どこまで元の生活が出来るのか、長い闘いになりそうです。
叔母には娘と息子がおり、叔母が離婚後は私の父の会社で働いていたこともあり、幼い頃はいとことは姉弟のように育ったのですが、大人になってからは生き方や考え方が違い過ぎて、上辺では仲良くしていても深く付き合う事はありませんでした。
母の病気が悪化していく中、当時は従姉も父の会社で働いていたのですが、叔母と二人して会社を引き継ぎもなく辞め、更には看病でいっぱいいっぱいの私しかその手続きが出来ない事を知りながら多額の退職金と社用車を退職金の一部として渡すように要求してきました。
彼女達にも言い分はあるのでしょうけれど、私はこの時ほど人というものが醜いものだと思ったことはありません。
自分の姉が生きるか死ぬかの時に、人はやっぱりお金なのだと。
その時から、彼女達との付き合い方に自分の中で一線を引くようになりました。
親戚には変わりはなく、今後も付き合わなければならないので表向きには変えずに。
母が亡くなった後、叔母が言った「私はなにも幸せな事のない人生だわ。あなたのお母さんは、病気になった時、私はやりたいことをやって来れたかなって言ってたのに」という言葉に絶句しました。
誰が癌だと言われ、本心からそう言えますかと。
「癌にはなったけれど、一生懸命生きてきたよね。まだまだやりたいことはあるし、今まで苦労もあったけれど、それでも振り返れば良い人生だった」と、母は叔母にそう言いながら自分自身に言い聞かせていたのだろうなと。
幸せになりたければ、幸せになる努力をすればいいのです。
それは何歳からでも遅くはないし、そう思うのなら、そうなりたいと本当に願うのなら、行動に移すでしょう。
それでも叶わないことなんて沢山あります。
だから私は“何を幸せだと思うか”だと思うのです。
母が亡くなり、弟のような存在のバウの介護を2年間して看取り、心からそう思うようになりました。
家の仕事も、毎日問題ばかりで逃げ出したくなります。
母が病気になったのが21歳の時、亡くなったのが26歳の時、私はやりたい事が沢山沢山ありました。
けれど、いま私はこの生き方を選んで生きています。
状況がそうなったから仕方ないと嘆き諦めて来たけれど、過去に戻れたとしてもまた同じ選択をするだろうなと思うのです。
結局は、仕事以外で頼りない父を捨てては行けないし、父と母が築いた小さな城を、そしてそこで働く社員達を守らないと!と、それが私の宿命なのだと思うのです。
ここ最近、ここで一生懸命生きてみよう!と決意して向き合って来たら、周りの景色も変わって見えるようになってきました。
そして、私が今までやって来たすべての事が無駄ではなかった!そう思えることもありました。
毎日ストレスフルなのは変わりませんが(笑)、真剣に向き合えば自分自身を、また周りを変えることも出来るんだなと感じています。
叔母のことも、従姉のことも、過去の事をなかったことには出来ないけれど、それでも大変な状況になった今、私に出来得る限りのサポートをしていくことにしました。
私は、嫌な事も大変な事も一生懸命向き合っていればいつか良い事がある!と思って生きてきたのですが、果たしてそうなのか、単に苦労だけして死んでしまう人生なのか、それは分かりません。笑
悲しいかな敢えて大変な道を選んでしまう性分なのです…。
昨日、病室で叔母と話していると叔母が突然「私、家に帰れたらこれからの生き方、変えてみるわ」と言いました。
先日は、病院でいろいろなボランティアをされている人の話になり「私も元気になったらあぁいうのをやろうかな」と言ってみたり。
従姉も「バウくんが亡くなった時に、私もお母さん(叔母)もただメールを打っただけで、駆けつけもせずお供えもせず、ひどいことをしたなぁと話していたのよ」と言いました。
正直、私が本当に辛いとき、大変な時、彼女たちは何も手を差し伸べてはくれませんでした。
母の時も、本当に親身になってくれたのは母の友達でしたし、私の歌の先生でした。
バウの介護中、また亡くなった後、身も心もボロボロになった私を助けてくれて寄り添ってくれたのは友達たちでした。
私がいかにバウの事を大切に思っていたか彼女達が知らないはずはないけれど、今になって、自分がそういう状況になって思う事もあったのでしょう。
看病をする、介護をする、これは自分の事を第一に考えていては出来ません。
今は色々なサポートを受けられるけれど、それでも家族に病人がいると、生活はそれまでとガラリと変わります。
目を背けたくなることも、逃げ出したくなることも沢山あります。
でも、一つ一つ乗り越えていくしかないし、本人が一番辛いのですから、家族は寄り添って支えていくしかないのです。
それは最終的には自分の為でもあると思うのです。
人の優しさが身にしみたり、また自分自身が人に優しくなれたり、普通に生活していると気付きにくい事を感じられるようにもなります。
なんでもそうですが、分かっているつもりでも、本当にその立場にならないと分からない事が沢山あります。
私も、患者の思いは理解しようと努力してきたつもりですが、本当の意味では分かっていないのだと思います。
叔母と話していて、何の後悔もないと思えるほど、母にはやりきったつもりでいたけれど、もう少しあぁしてあげていたら良かったかなと思う事もありますしね。
従姉・従兄はどうか知りませんが、私自身は叔母がこの病気にならなければCIDPなんていう病気を知る事もありませんでしたし、偉そうな事を言っても未だに、結婚したい!でも、出来ない!やりたい事をしたい!でも、出来ない!ここから逃げたい!でも、出来ない!なんていう負のループに陥るときもあるのですが(笑)、健康なだけで幸せだし、体さえ元気だったらやろうと思えばなんでも出来るんだ!と改めて思わせてくれました。
だから私は、毎日を一生懸命に、丁寧に生きて行きたいと思います。






















