なんかスゴい古い地図が出てきた | 台覧坊一等のブログ

なんかスゴい古い地図が出てきた

今日も1日ゼロ災で行こう ヨシ!

昨日に続いて、ツミモニアダンジョンから発掘された古文書の話です。





コレが、今回一番の大発見。
「大京都市街図」というタイトルですが、「學區」をはじめとする旧字体や、横書きが右から左に書かれていることからも、これが戦前の物と判ります。




発行年月日を見ると、なんと「昭和八年十月十日」(西暦1933年)と、90年も前の物でした。
昨日の岡山県の地図が約半世紀なら、こちらはもう一世紀近い古文書ということになります(笑)
私の父は昭和11年生まれなので、これは祖父母、あるいは父の兄や姉の誰かの購入品ということになるかと思います。
親世代は誰も残っていないので、今から真相を確認する術は失われていますが、それでもけっこう貴重な発見かも、とは思います。





父の代から私の代までの母校だった滋野中学校は、まだ小学校だったようです。
たしか父が滋野「小学校」を卒業する時に切り替わったため、そのまま滋野「中学校」の1期生だったようなことを、子供の頃に聞かされた記憶があります。
梅屋小学校の北側には、今では京都府警本部や第二日赤がありますし、梅屋小学校自体も、生徒数の減少で廃校になり、第二日赤の拡張で建物もみんな消えてしまっています。
たしか創立が昭和4年だったはずなので、この地図が出た頃はまだピカピカの新設校だったことでしょう。
滋野が中学校に変更されたのも、そういった経緯があるのかもしれません。
このすぐ北にある下立売通りは、この地図が発行されるより前に廃止になっていますが、京都電気鉄道の路線があったため、烏丸通りから堀川通りまでの区間だけが、他の区間よりすこし広くなっています。





もう一つの母校である鴨沂高校は、まだ「第一高等女学校」です。
日本最初の官営女学校で、「八重の桜」のメインヒロインだった新島八重が在籍したことで、本編後の縁の地を紹介するコーナーでも取り上げられていました。
この前の寺町通りにも地図発行以前に廃止された京都電気鉄道の路線があったため、今出川通りから二条通りまでは、他の区間と比べて道幅が広くなっています。
寺町二条の交差点などは、そういう眼で見ると確かに廃線跡っぽい、変な道の付き方をしています。





更に東へ行くと、丸太町通りが天王町でドン詰まりになっていて、白川通りがありません。
ここから北の白川通りができたのは、だいぶ後のことのように聞いていますので、市電の錦林車庫なども、かなり新しい車庫だったのだろうと思います。





反対に西へ行くと、西の京円町(丸太町通りと西大路通りの交差点)でおしまいで、新丸太町どころか西大路通りも以北がありません。
西大路通りを越えると「丸太町通り」が「新丸太町通り」になるのが不思議だったのですが、こうして古地図を見ると、案外簡単に理由を知ることもできるのが面白いところです。





地図に無い西大路通り予定地を北に向かうと、今出川通りも千本通りまでで、そこから西は後からできた事が判ります。
ここでは、北野天満宮前まで来ていた市電の堀川線を確認することができます。
また、今は京都鉄道博物館に収蔵されましたが、ここの北野車庫(市電廃止後にバスターミナルとして整備)に、ながらくN電が保存されていました。
子供の頃はよく自転車を飛ばして見に行っていました。





堀川線(北の終点が北野天満宮なため、北野線とも呼ばれる)は、京都市電気軌道事務所(今の京都市交通局)ではなく京都電気鉄道が敷設した路線のため、省線(今のJR)と同じ狭軌が使われている路線でした。
京都市に買収後、京都市電の車両と同番の物を混同しないよう、狭軌の英語であるナローゲージの頭文字を採ってN○○と改番されたため、略してN電とも呼ばれていました。
京都電気鉄道の他の路線は、京都市が買収後に順次標準軌に改軌されたのですが、この堀川線だけは、廃止まで狭軌のままで残されました。
車両もこのN1型が使われたため、独特の雰囲気を持っていたといわれています。






今度は北野から東に行ってみると、東山通りも百万遍(今出川通りとの交差点)でおしまいだったようです。
当然その北にある元田中の叡山電車との相互乗り入れも、影も形もありません。
このあたりは、京の都時代に、御所の北詰だった今出川通りが京洛の北限で、以北を洛外としていたことに由来するのではないかと思います。





官営の省線はというと、京都駅は既に、新幹線を除けば今の線形に近い形になっているように読み取れます。
もっとも、細かな配線図と比べられるような正確さは無いと思うので、詳細を調べると違っているとは思います。
山陰線は京都駅が終点のドン詰まりですが、奈良線は伏見までは元の東海道線なので、西からも入線できる線形です。
駅の西側は奈良線の引き上げ線になっていますが、一応今も東海道線と繋がってはいたはずです。





すぐ西の梅小路もまだ機関区ですし、今は公園や水族館、JR貨物の施設やJR社員の社宅などが並ぶエリアにも、線路が敷かれています。
特にこの梅小路機関区は、東海道線特急の牽引機を担当していたこともあり、かなり大規模な機関区でした。





更に西の西大路通りには、まだ西大路駅が開業していません。
駅の雰囲気からして新しい駅なのがよく判るのですが、更には昨年、新しく北口が開業したので、ずいぶんと雰囲気が変わりました。
北口の施設を建てる土地を捻出するため、梅小路貨物駅のヤードの一部を切り取ったため、施設の東西で不自然に途切れた線路を確認することができます。





梅小路から北へ行った山陰線の二条駅は、今とは異なる大きな敷地面積の駅です。
ここに広い貨物ターミナルがあったことを知る人は、だいぶ少なくなったかもしれません。
私の子供の頃は、まだ地上駅でしたので、貨物列車の操車作業を見ることができました。
また当時このあたりは、普通客車列車を牽くDD54を見ることができるポイントでもありました。
この当時の二条駅の駅舎は、高架化の時に解体されましたが、梅小路蒸気機関車館の本館として移築され、今も健在です。





再び民鉄に話を戻して、京都駅から南に延びる近鉄京都線は、当時は奈良電気鐵道(通称「奈良電」)という名称でした。
この地図の範囲外なのですが、丹波橋で京阪と相互乗り入れしていたのはもっと後の時期なので、この地図の年代では繋がっていないはずです。





京阪は、三条京阪で本線と京津線が繋がっていたことが、はっきり見て取れます。
このルートを使って、淀屋橋~浜大津に特急「びわこ」号が走るのは、この地図発行の翌年からです。





もう1社の阪急ですが、この頃はまだ京都線は存在しません。
京阪の一線区で、新京阪という名称でした。
特急「燕」とデッドヒートを繰り広げたP6は、いまでこそ阪急が「うちの電車」と言っていますが、当時は新京阪の車両でした。
後に京阪と阪急が、前述の奈良電なども含めて国策で一つの会社だった時代があり、戦後に再び分離して現在の形になりました。
そのときに、淀川をはさんで西と東に分けようという阪急側の圧力を京阪が受け入れざるを得ず、京都線は京阪ではなく阪急の側に引き取られた、という経緯があります。
阪急河原町駅から鴨川経由で京阪鴨東線と繋ぐ計画も在ったらしいのですが、もし実現していれば、京阪、阪急、近鉄の関西大手3社の線路が必ずどこかで繋がっているという、一大ネットワークになっていただけに、見てみたかった気もしないではありません(笑)
もっとも、今の関東地方のネットワークの状況を見れば、静岡の事故で千葉の電車が遅れるとか、冗談のような影響の及ぼし合いをしていることと考え合わせても、何でもかんでも繋ぐのも良し悪しとは思います(^^;
地図では四条通地下線の西大路以東が書かれていますが、コレはよく見ると誰かがペンで書き足しているようで、元の地図では西院までだったようです。





最後に市電の伏見線です。
堀川線に最後までN電が走っていたおかげで、写真が多く残されているせいもあってか、N電といえば堀川線、というイメージが強いようで、意外に勘違いしている人が多いのですが、京都市に最初に走った電車は、堀川線ではなくこの伏見線(開業時は稲荷線)です。
この路線は、京都市電唯一の専用軌道区間があったことでも知られています。

地図では、最初に開業した勧進橋から東の稲荷へ行く路線と、分かれて南の中書島まで行く路線とが書かれています。
伏見線は北野線と違って、買収後すぐに改軌されたため、どちらかというと京都市電の車両が走っている風景をおさえた写真のほうが多く見かけるように思います。



古い地図は、当時と今とを比べることができたり、不自然な風景の原因が判ったりと、色々と楽しいものです。
内容が現実と合わなくなったからといって捨てずに、こうして取っておくのもアリと思える今日この頃でした。



~ 発掘古文書編・おしまい ~