【映画鑑賞】天外者(てんがらもん) | 台覧坊一等のブログ

【映画鑑賞】天外者(てんがらもん)

わざわざ「映画鑑賞」ってテーマを設けておきながら、一昨年の「ミッドウェー」以来全く記事を書いていませんでしたが、色々と想うところもあって、「ミッドウェー」以降に見た映画の話の他、過去に見た作品の思い出話なんかも挟みつつ、少しづつでも書いていこうかな、と思います。

ただしアニメ作品は、別に設けた「アニメ」で書きたいと思いますので、ここでは実写(特撮を含む)の話題を記事にします。
それと、今後の「映画鑑賞」の全ての記事で共通のポリシーですが、こうしたネット上での鑑賞後の感想をアップした記事でネタバレを嫌う人は結構多く、私もその一人です。

過去に公開され、何度も上映やテレビ放映が行われたような古い作品の場合は別として、新作映画の場合は特に、ストーリーの細かい内容にも触れるつもりはありません。





今回は「ミッドウェー」と同じ年の公開作品、「天外者(てんがらもん)」です。
主演は故三浦春馬さんで、最後の映画作品でもあります。

タイトルの「天外者」(てんがらもん)とは、薩摩言葉で「とても優れた能力のある人」の意味で、「天下の外」つまりは「規格外れのすごいヤツ」といったニュアンスのある褒め言葉だそうです。

関西財界にとって大恩人というか、大阪商工会議所の礎となる組織を立ち上げ、「商都 大阪」を決定付ける元となった偉人の一人である五代友厚を主人公にした作品です。
五代友厚という人がどんな人物かを書くと、いくらページがあっても足りませんので、それはウィキペディアあたりの情報集積サイトに任せます(笑)

基本的に人物名には敬称を付けたいところなんですが、この方の場合「公」ではないし、享年を考えると「翁」というほどの年齢でもないし・・・。
豊臣秀吉公の関西特有の敬称「太閤さん」の例に倣って「五代さん」もアリかと思いますが、私は船場の者ではないのでソコまで親しみを込めて呼ぶのもなぁ・・・、と、色々と考えましたが、結局ふさわしいものが見付からなかったので、あえてこのままとさせていただきます。

実はこの作品、リアルタイム、つまり2020年12月の公開時には見ていませんでして、観たのは今年の4月です。
「お前は何を言ってるんだ?」と思われるかもしれませんが、実はこの時期、京都の映画館でリバイバル上映が行われていまして、観るチャンスに恵まれたのです。

本当にネ、何というか・・・、惜しい役者さんを亡くしたなぁ、と。
作品全体に溢れる熱量とか、演技のすごさとか、三浦春馬さんなくして成立しない作品だったことが、随所に溢れています。
本編終了後のメイキング映像を見ても、とても自殺を考える人に見えないご様子だったんですが・・・。
国内だけではなく、海外でも幾多のマスコミが報じ、追悼メッセージが寄せられたわけですが、そういった環境自体が、何かプレッシャーになっていたり、悩む原因となっていたのかもしれません。
もちろん、ご本人にしか解らない何かが引き金になっているのだろうと思うのですが・・・。
本当にやるせない気持ちです。



以下は、決して個人・故人を愚弄するものでも何でもなく、私の基本的考え方というか、宗教的ポリシーとしての思い・想いなんですが。
私は、このブログでも時たま書いていたと思いますが、仏教徒です。
それも信心の対象は「仏法」ですから、他人から観れば原理主義者と思われるかな、と自分でも思うくらいに(笑)

そんな私の生死観からすると、自殺は救いをもたらしません。
死んだら苦しみから開放される?
とんでもない。
日本は、平安時代から鎌倉時代を経て戦国、江戸と、長らく続いた武家社会の影響で、自ら死を選ぶことを、潔いとか美徳と考える風潮が、いまだに見え隠れします。
しかし自ら死を選ぶことは、実は堕獄への道なのです。
他人の命を死に追いやる殺人が堕獄の罪障を積むことは、仏法に限らず広く知られていますが、命の重さというものが万物において平等である以上、自身の命を死に追いやることもやはり、他殺と同じ重さで罪障を積むのです。
死ぬほど辛い想いをして、死を選んだ先に待ち受けるのが、それを上回る地獄の責め苦。
たとえ運よくすぐに来世への輪廻転生があっても、生まれ変わった先は、良くて小動物や虫レベル。
それも害獣や害虫として即刻駆除されてしまうような、何しに生まれてきたのか解らないような命として、です。
次に人に生まれるまでは、永い永い永い永い歳月と、何度も何度も何度も何度もの輪廻転生が必要になることでしょう。

ちなみに心中や後追い自殺をした人同士は、来世で再び縁を持つことは叶わない、という説もあります。
仏法上、本来であれば現世の縁は来世にも繋がる、とされているのですが、「死んでも共に居たい、再び逢いたい」という想いのあまり自分の命を死に追いやった罪障が、「求める人と会うことが出来ない」という因を積むためだと言われています。
ただし無理心中のように、巻き込まれて殺された側の命は、「殺された」という因が、おそらくはその前世で積んだであろう罪障を消滅させることで、その分だけ成仏に近付いた境涯に転生することでしょう。
当然ですが、無理心中に巻き込んだ側の命と同じところに、再び縁を結ぶことなど、到底叶いません。

更に成仏について言えば、そもそも「死んだら成仏する」という考え方自体が間違いで、現世で死ぬことと成仏することは、必ずしもイコールではありません。
仏教の基本理念の一つである輪廻転生においては、現世の境涯に応じて来世の境涯が決まります。
現世でどれだけの功徳を積めるかに、死後の成仏の成否も掛かっているわけですが、そんなに甘い道のりじゃないことは、経典を紐解けばいくらでも出てきます。
宗派によっての違いはあると思いますが、末法の現在、成仏の道は荒行でも座禅でも念仏でもないことは、釈尊の教えにも明示されていることです。



死ぬ事を考えるほど辛い、今が人生最悪、どん底だ、と思った時に、もうちょっとだけ考えてみて欲しい。
この土地で、この仕事で、この学校で、この家で・・・。
棄て切れていないコダワリが何か残っていませんか。

よそ様に恥ずかしい?
世間体が悪い?
そのよそ様や世間は、あなたに何かしてくれましたか?
救いの手を差し伸べてくれましたか?
そんなヤツラに恩や恥を感じる必要、本当にあるんですか?
命を賭けるほどの価値が有る相手ですか?

こんな自分じゃ親に顔向けできない?
親はね、子に先立たれるくらいなら、生き恥晒してでも生きていることを望むものですよ。
自分が食うに困ってでも、子を何とかしようとするのが親ってモンですよ。
親の愛情は、そこまで深いんです。
なのでもし、あなたの親がそうではないなら、例えば殴ったり蹴ったり怒鳴ったりしてでも言うことを聞かせようとするような親なら、そんな親、あなたのほうから棄ててかまいません。
産んでくれた恩徳なんて、力で押さえつけたり生き恥を晒すなと追い込む罪障で、全部帳消しです。
ましてや里親だったりするようなら、恩義なんて感じる必要は、全くありません。
それどころかおつりが来ます(笑)



そういった諸々を踏まえて考えるならば、自分を殺す勇気と行動力があるのなら、やれることは、他にいくらでもあります。
先日も、ダチョウ倶楽部の上島竜平さんが亡くなられて話題になりましたが、その関連ニュースの末尾に何度も掲載されていますが、死ぬ行動力があるうちに、その力で電話しましょうよ?
話を聞いてもらえるだけでも心が軽くなりますし、相談に乗ってもらった結果、思いもしなかった解決策が見付かることもあります。

ホントもどかしいです。
このアメーバブログは、出会い系サイト、特に未成年者売春・買春に繋がるパパ活や援交募集や神待ちサイト代わりに使われることを警戒するあまり、ユーザーが連絡先を交換することを一律に禁じています。
しかも内容によって手心を加えるわけでもなく、パトロール用ボットの自動検出ですから、内容を問わず問答無用です。
身元が確かな大手企業が主催するサークルのオフ会告知ですら、担当者の連絡先が載っているだけで警告文が飛んでくる有様です。
世の中には公立私立を問わずいくらでもセーフティーネットがあるのに、ここで紹介する手段が規約違反に該当するのは、残念でなりません。

なので中途半端ですが、こういう書き方をします。
「自殺 やりかた」を検索するくらいなら「自殺 相談」と打ち込んでください。
「自殺 防止」「自殺 悩み相談」でもいい。
自殺することに前向きになるのではなく、自殺しないことに前向きになれるキーワードを使って検索してください。



もう一度書きます。
いったん立ち止まって、振り返って考えてみて欲しい。
後は死ぬ以外無いほどの底なら、それより先は上しか無いんです。
生き続ければ、良くはなっても悪くはならないんです。

でも死んだら、それより深く堕ちる道への扉が開きます。
だから、どうか死なないで。
何かを手放した時、まさかと思うようなモノでも思い切って手放してみた時に、その空いた手に掴める救いの道は、必ずあるんです。
 

死んでしまいたいと思う心に背を向けて、生きてみようと前向きになること。

 

まずはそこから始めましょう。