
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
英彦山(ひこさん)は、大分県との県境にまたがる英彦山の西側の標高600m前後の山腹に位置する。
1889(明治22)年町村制施行により、彦山、落合、桝田の3ヶ村が合併して彦山村となる。1942(昭和17)年に添田町に編入されて現在に至る。(歩行約2.4㎞)

JR日田彦山線は、2017(平成29)年7月の九州北部豪雨により、添田駅から夜明間が不通となっており、バス代行が行われている。添田駅から添田町バス(11:22)約35分、銅の鳥居バス停で下車する。

禊場(みそぎば)から銅鳥居に続く山中の参詣道は、雲母坂(きららざか)、唐(がら)ヶ谷を経て銅の鳥居に至る。途中の峠には石畳が残されているようだが、南坂本バス停から銅鳥居まで徒歩約1時間という。

奉幣殿までの石階段に入る。(左手には藤棚)

銅(かね)の鳥居は、1637(寛永14)年佐賀藩主・鍋島勝茂が寄進したもので、青銅製の円筒形は、柱周り3m、高さ7mで6個が積み重ねられている。英彦山という額は、1729(享保14)年霊元法皇より「英」の1字を賜り、1734(享保19)年に掲げられた。(国重文)

浄土宗2祖である鎮西上人(1162-1238)は、筑前香月(現在の北九州市八幡西区)で生まれ、9歳で出家して天台僧となり修行する。後に浄土宗開祖の法然上人との出会いがあって、その弟子となり念仏門に入る。像は、若き日に嘉穂郡の明星寺から英彦山まで1千日、日参され、修行されたことを偲んで建立された。

鳥居の傍に九州西国33観音霊場1番札所である天台宗の「霊泉寺」がある。開山は中国北魏の僧・善正上人と伝えられ、仏教伝来の538年より前の531(継体25)年に一宇が建立される。修験道の祖である役小角(役行者)もこの地で修行したといわれる。その後、堂宇、伽藍などが造営され、江戸中期には社坊800を数えるほど繁栄をきわめた。
しかし、明治の神仏分離令により、徹底的に仏教色が排除された。現在の堂宇は、1955(昭和30)年に再興された。

点内護法神(てんないごほうじん)は、参拝人に不らちな心構えのものはいないか参道の入口で見張る神で、山内7ヶ所の入口に祀られたうちの1つである。(仏名では妙見菩薩)

下宮(しものみや)はご神幸祭(三体)の御旅所で、現在も2日間にわたって3基の神輿が奉幣殿を出御し、御旅所で鉞(まさかり)舞、稚児舞、獅子舞が奉納される。他の地域と違って修験道の影響が残る祭りとされ、出御前には神主、僧侶、山伏が一斉に祝詞とお経をあげるという。

銅の鳥居から奉幣殿までの約1㎞の参道は、大門通りと呼ばれ、1671(寛文11)年~1687(貞亨4)年代に小倉藩主・小笠原忠雄(ただかつ)が、中谷の一部に彦山町50軒、道幅12mの石畳と石段の参道を構築し、両側に坊を集中させた。

浄境坊(じょうきょうぼう)は寺務を総括する最高の僧(座主)が、明治維新で「高千穂」の姓を名乗り、英彦山神社の宮司を務め、座主院からこの坊へ居を移したとされる。(今日まで世襲されている)
門は座主院の庭門を移したと伝えられる。

財蔵坊(ざいぞうぼう)は仏事を行う山伏の居宅で、英彦山詣での檀家の宿としても利用された。建物は玄関式台から3部屋が連なり、最奥に祭壇を備えた客間部と、囲炉裏や炊事場を備えた居住部に分かれている。(平日と冬期は休館)

賢秀坊(けんしゅうぼう)は祭祀記録にある古い坊で、江戸期には峰入りの大先達を務めた。幕末の英彦山は、長州藩の倒幕を支持する山伏が多かったため、佐幕派の小倉藩は、藩兵で英彦山を制圧したという歴史もある。

増了坊(ぞうりょうぼう)は政所坊、亀石坊とともに英彦山三大坊の1つで、英彦山を援助した佐賀鍋島藩の宿坊であった。
参道に面した坊は、いずれも入口を下手に設け、黒門を構えるのが特徴のようで、この坊も太閤石垣に門を下手に構えている。

増了坊前にある石灯籠は、佐賀藩の支藩である小城藩主・鍋島直能が、1682(天和2)年献納したといい、約60対基あるとされる。
石垣の地には、1696(元禄9)年英彦山が修験道として、西日本の本山であることが幕府によって認められ、その記念に浅草観音堂を祀った跡とされる。

義俊坊(ぎしゅんぼう)は僧侶系の山伏で、1863(文久3)年11月英彦山山伏が長州藩と組んで、倒幕に加担ことを知った小倉藩は、首謀者の一人である義俊坊順道を逮捕し、小倉の獄舎に入れ、1866(慶応2)年小倉城落城の際に斬首の刑に処した。(跡地のみ)

2002(平成14)年に英彦山小学校は落合小学校に統合され、校舎はスロープカー花駅や郵便局として活用されている。

了乗坊(りょうじょうぼう)も祭祀記録にある古い坊で、幕末まで神道系山伏として祭りなどを司祭する。日本では仏が神として現れると考え、その神を権現と称えた。明治の神仏分離令で廃仏毀釈への道に進み、大小の仏像が廃棄された。密かに神棚の隅に隠して崇拝した坊が多くあったといわれ、この坊はその神棚の状態をよく残しているとされる。明治以後は旅館に転向したという。

松養坊(しょうようぼう)は坊家の旧態をよく残しているという。種田山頭火も2度宿泊している。

石段に変わると彦山町商店街。

荻原井泉水、木村緑平ら自由律俳人が泊まった旧白梅旅館。(現中央館だが廃業されたようだ)

かつては旅館や土産物屋が並び、参詣者で最も賑わっていた町溜で、今も数軒の土産物屋がある。花山旅館の玄関は、唐破風を備えるという明治後期から昭和初期の旅館建築の面影を伝える。

神仏分離令により多くの山伏は離山し、近代化による筑豊の炭鉱景気とともに、坊家は旅館業等に転職し、英彦山は保養の場所として変貌した。

参道を大辻道が交差する。右が花山旅館と中央館、左が冨士屋商店。

商店街から参道を上がると石鳥居。

石鳥居の右手に門柱と石灯籠、宝篋印塔が残されているが、知恩院があったとされ、後に英彦山小学校へ移行したという。

太鼓橋の先に山開きの横断幕が掲げてあるが、毎年5月下旬の日曜日に神宮で祈願祭が行われ、登山者が上宮を目指すという。

1817(文化14)年人々を飢饉から救うことを祈って建立された宝篋印塔は、総高8mほどの大きなものである。明治の廃仏毀釈の際、日田咸宜園の画僧・平野五岳が、「献灯」の文字を刻んで灯籠に改変したことで破壊を免れたという。

“石垣や みな坊跡や 蔦紅葉”
高浜虚子の長男・高浜年尾が、1956(昭和31)年11月英彦山滞在時の作。

英彦山三大坊の1つ、亀石坊(かめいしぼう)があった地。

室町期の画僧・雪舟の作と伝わる亀石坊庭園は、益田市の医光寺、萬福寺、山口市の常栄寺とともに、雪舟の四大庭園とされる。

凡人には石が並んでいるようにしか見えないが、庭園の東側を一段高くして、南西へ傾斜を利用して築山をつくり、その山裾に池が掘られている。
また、出島のかたわらに亀の甲羅を表現した亀石、鶴が首をもたげた姿の鶴石が据えられ、奥行の深い滝石などが配石されているという。

坊跡から筑豊の山々が望める。

霊泉寺に出仕する清僧(非妻帯)寺院が、12あった寺院の1つが智楽院(ちらくいん)はであった。江戸期に妻帯し、坊家と同じように檀家を諸国に持ち、お布施で生活、祭礼、法会資金とした。明治以後に西谷から池ノ坊があった地に転住してきた。(隣の知足院(ちそくいん)も江戸期に妻帯、明治以後に山内の別所谷から鬼石坊跡に転住)

英彦山の会所があった所で、大きな建物があって修験道の時代には、幕府の巡見使、参拝に訪れた諸藩の役人や知名の人を、接待あるいは宿泊施設などに使用された。

顕揚坊(けんようぼう)も明治維新後に山内の玉屋谷から転住してきた坊で、江戸期から神道系の山伏であった。山伏たちが帰依した修験道は、神仏習合の宗教であったので神道系、仏教系のどちらでも転向が可能であった。

坊跡が終わると急な石段。

招魂社は幕末の尊王攘夷運動で、11人の英彦山義僧が小倉藩に捕らわれ死した慰霊碑。(1863年)

彦山高き処 望き氤氳(いんうん)
木末の楼台晴れて始めて分かる
日暮天壇人去り尽くし
香煙は散じて数峰の雲と作る
この詩は広瀬淡窓が、1810(文化7)年病気平癒祈願のため彦山参詣した際に作った詩。(四句からなる漢詩で、1句に7言の七言絶句)

“谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまゝ”
1931(昭和6)年東京日々新聞・大阪毎日新聞の両社が日本新名称を募り、これに対する俳句を募集して、高浜虚子が選をし、杉田久女の句が最優秀句に選ばれた。

英彦山神宮奉幣殿は修験道時代の霊仙寺大講堂で、明治の神仏分離で寺は廃絶したが、神社の建物として存続した。現在の建物は、1616(元和2)年に小倉藩主 細川忠興が再建したもので、屋根は柿葺、入母屋造りで桃山時代の様式が残っている。

鳥居の先が下宮、中宮(中津宮)、上宮へ至る参道。

英彦山は日の御子のいる神の山とされ、「日子の山」と呼ばれていたが、平安期の819(弘仁10)年嵯峨天皇により「彦山」と改められた。(社務所)

英彦山は標高1199.6mの南岳を最高峰とし、中岳、北岳の三峰が連なり、中岳に上宮がある。山形県の羽黒山、奈良県の大峰山と日本三大修験道場の山とされる。

町営バス(14:39)でJR彦山駅に降り立つと、かつての駅舎は消滅していた。九州北部豪雨で被災した不通区間(添田-夜明)について、鉄道からバス高速輸送システム(BRT)に転換(2023年度予定)するという。駅舎は築80年を経過して老朽化のため維持困難、BRTに対応できないなどの理由で解体された。
駅からJRの代行バスで、添田駅まで戻って彦山線に乗車する。(旧駅舎は1999年9月撮影)