日本で種牡馬となったもう1頭の馬・プルラリズム。 | Rosen Konig ローゼンケーニッヒ

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ブログタイトルは、シンボリクリスエスと、ローズバドの仔である、サラブレッドのローゼンケーニッヒ(ドイツ語で、薔薇(バラ)の王という意味・牡・毛色・黒鹿毛)に由来しています。

日本で種牡馬として繋養生活を送り、中央競馬・地方競馬など活躍馬を輩出した外国産種牡馬には、ノーザンテースト・サンデーサイレンスなどのアメリカ合衆国・イギリスなどの優秀産駒がたくさんいますが、グッドルッキングホース・ミスターシービーと同じく、昭和55年(1980年)生まれのサラブレッドとして生産された産駒の1頭に、プルラリズムがあります。

 

グッドルッキングホース・ミスターシービー(血統名・シービークインの一)の誕生から2日後の、1980年(昭和55年)4月9日(日本時間・4月10日)・アメリカ合衆国 Cayton Park Studで、ザミンストレルと、Camberttaの仔として生産された、プルラリズムは、ジャック・ヴェルトハイマー氏(フランス共和国)の所有馬として、フランス共和国に競走馬として輸入され、アレク・ヘッド厩舎(フランス共和国)に預けられました。

 

1982年(昭和57年)8月21日(日本時間・8月22日) 当時 牡・2歳の鹿毛の馬・プルラリズムは、ドーヴィル競馬場で行われた、未勝利戦でデビューするが、2着に敗れたとはいえ、F・ヘッド騎手の活躍で無事にデビューしました。

同年の9月7日(日本時間・9月8日) 今度はシャンティ競馬場で行われた、一般戦(4頭立て。)で、プルラリズムは、2着馬などを抑えて1着となり、デビュー2戦目で待望の初勝利をあげました。

 

9月26日(日本時間・9月27日)に、ロンシャン競馬場で行われた、シェーヌ賞に出走したプルラリズム、1分49秒5で快勝し、初の重賞制覇を果たしたのです。

 

1983年(昭和58年) 牡・3歳のプルラリズムは、ロンシャン競馬場で行われた、ギシュ賞(4月17日(日本時間・4月18日))に出走し、2馬身差で1着、重賞2勝目を挙げましたが、5月15日(日本時間・5月16日)に行われたリュパン(リボン)賞では、同じザミンストレルの産駒の、レミグロンの3着に敗れ初の重賞競走での敗戦を喫しました。

続いて、6月1日(日本時間・6月2日)にイギリス・エプソム競馬場で行われた、ダービー(イギリスダービー)では、同じアメリカ合衆国生産馬のティーノソの7着(このレースでは、ダイワテキサスの父・トロメオ(アイルランド産馬)も参戦したが、9着に終わった、16着のワッスルもトロメオと同じく、後に種牡馬として日本へ輸入された。)、フランス共和国に戻った後の、6月26日(日本時間・6月27日)に、ロンシャン競馬場で行われた、イスパーン賞では、クリスタルグリッターズ(こちらも、アメリカ合衆国生まれの馬だが、アメリカ合衆国で種牡馬入りした後、日本に輸入された。)の6着、8月15日(日本時間・8月16日)にドーヴィル競馬場で行われた、コートノルマンド賞では8着と振るわなかったのです。

 

そして、10月16日(日本時間・10月17日)に、ロンシャン競馬場で行われた、一般競争で2着のコンフォームを抑えて1着となりプルラリズムは4勝目を挙げたのです。

 

その後、1984年(昭和59年) 牡・4歳のプルラリズムは、5月1日(日本時間・5月2日)に、サンクルー競馬場で行われた、ミュゲ賞から始動したが、レッドミードの3着、5月27日(日本時間・5月28日)にロンシャン競馬場で行われた、ドラール賞に挑むも11着と振るわず、ようやく勝利したのは、10頭立ての北部鉄道賞(6月10日(日本時間・6月11日)・シャンティ競馬場)の1レースだけで、同じレースが、プルラリズムの最後の勝利レースとなり、6月24日(日本時間・6月25日)・ロンシャン競馬場で行われた、イスパーン賞でクリスタルグリッターズと再度再戦しながら6着に終わったのを最後に、プルラリズムは惜しくも現役を引退、1985年(昭和60年)に、種牡馬として日本に輸入されました。

 

日本に種牡馬として輸入された、プルラリズムは、ユウキトップラン・ヤマノカサブランカ・テイエムリズム・マルブツサンキスト・ダイカツリュウセイ・コニーストン・コウエイダッシュ・マルブツパワフル・コトブキトミオー・ベストセレクションなどの産駒を輩出しました。

 

プルラリズムは、2013年8月31日に、北海道の渡辺牧場で息を引き取りましたが、この間も、タニノタバスコなど多くの産駒を送り出し、日本競馬に種牡馬として大きな足跡を残するなど、影響を与えた種馬の1頭になりました。