昭和初期の「京都画壇」と沖縄⑤ | 「沖縄病」の楽しみ方…?

「沖縄病」の楽しみ方…?

空港に降り立った途端に味わうまったりとした空気感が好き…
「また来たよ…」とついニヤリとしてしまう…
先日戻ったばかりなのにもう次の訪沖のことを考えている…
そんなあなたの症状を改善? 助長? いたしましょうかね~

親族の結婚式があって京都へ行って来ました。
昨晩帰って来たところです。
「京都画壇」の記事に取り掛かっている最中のタイムリーな時期なので、
京都市美術館で~
菊池契月や、
上村松園や、
竹内栖鳳やらの作品群を鑑賞して !!
などと深く考えもせずに勝手に夢想しながら訪れましたが
無教養人の浅薄さ
この時期は京都市芸大生の卒業作品の発表会をやっていて、
常設作品コーナーなんてないんですね。
美術館所蔵作品の展示会は年に数回しかやっておらず、
昨秋11月に開催されたばかりでした。
しかも高額の有料で !!
残念。
 
 
【京都画壇と森井龍泉】 
それでは、「京都画壇」シリーズ⑤の本題に入ります。
今回は、「森井龍泉」の経歴の概略をご紹介します。
森井龍泉の本名は「森井楽太郎」、
1878年(明治10年)に倉敷の呼松と云う漁村で出生しています。
森井家は呉服屋をしていて資産を有しており、
嗜好文芸への関わりを持つ余裕のある家庭の下で成長しながら、絵画への造詣を深めていったようです。
明治29年(1896)の19歳で京都の鈴木松年が主宰する「鈴木画塾」へ入塾します。
2年後の21歳で地元呼松の「琴野」と云う女性と結婚しますが、数年で離縁しています。
 
明治35年(1902)の25歳の折に、松年から「龍泉」の雅号を授かります。
これを以って「免許皆伝」を与えられた事になったようですが、
以後は、南画修行のため満州やモンゴル方面で巡業したり、
博多~宮崎~鹿児島へと遊歴したとの記録もあり、
京都との関りは、この「龍泉」の雅号を授かるまでの6年間だけだったようです。
 
菊池契月(当時の旧姓・細野)と時を同じくして(鈴木松年と対立していた幸野楳嶺門下四天王の一人・幸野芳文門下に入門したのが明治30年です)「京都画壇」に飛び込んだ訳ですが、
契月がその後「文展」等で次々と顕彰を授かり華々しく活躍したのに対し、
龍泉の6年間が、画壇でどのような評価を受けていたのか…
受賞の記録はありません。
ただ、師の松年が、雅号授与に際して交付した証文には、
「森井龍泉
右今日余が門に入り画を学ぶ
号を龍泉と与ふ
蓋し 芸の上り進む龍の如き事を望の意也
 明治三十五年壬寅 新正月の月
                   京都    鈴木松年 印 」
と記されています。
師からはそれなりの評価を戴いていたようですが、
残念ながら、明治中期当時は円山派最大の「派閥」を形成していた「鈴木門下」は、
師の逝去後は、その後継者となり名を馳せるべき人物を擁する事なく時代の流れの中に埋没して行ったようです。
 
私の手元には、龍泉の生い立ちから経歴までを記録した
「巽仙(そんせん) 倉敷・呼松の南画家」(昭和54年発行)
と云う小冊子があります。
(上記の「証文」の文言も同誌から引用しています。)
その中に龍泉の明治37年当時の作品が掲載されていますが、
円山派の日本画風を忠実に捉えており、
契月の当時の作品群(歴史上の故事に取材した作品が多いのが特徴です)と比較してもそんなに遜色はないように思えます(当然私見です)。
イメージ 1
 
そんな両者の画風に差異が見られるようになったのは大正期に入ってからです。
龍泉は、大正8年(1919)頃に呼松へ帰郷していますが、
この遊歴の時期に師から貰った雅号「龍泉」から「巽仙」(そんせん)へと換えます。
それからの彼は昭和16年(1941)までの22年間を、
地元を中心に、各地の有力者から物心両面の支援を受けながら、
呼松~岡山~笠岡と居所を移しながら画業を続けています。
(この間、二度目の結婚をしています。)
その頃の作品の画風も明治期のそれと変わりなく、
円山派「南画」の基本を忠実に墨守している様子が伺えます(これも当然私見です)。
一方の契月の画風は、前回の記事でご説明したとおり、
「南波照間」で表現されるような新境地を確立していくのです。
 
京都画壇に身を置き、画風を進化させていく契月に対し、
郷土の有力者の庇護を受けながら、当初の円山派の「南画的画風」を墨守した龍泉…
両人の直接的な接点は残念ながらありませんが、
こうした両人の経歴の差異こそが、
明治~昭和初期の間の「京都画壇」の変遷を如実に示す事例そのもののように思えるのです。
 
 
では、次回からは、
昭和初期の「京都画壇」の沖縄美術との関わりについてお話したいと思います。