〝善悪〟それは一般的に〝やっていいこと、悪いこと〟と表現されることがある。僕にとってはとても気持ち悪くて、意味のわからないもの。人が悪いことをしちゃいけないのは、誰かが困ることそのものが理由というよりも、雰囲気が悪くなったり、自分が怒られたり、酷い場合は何らかの嫌がらせを受けたり、よくても困ってる時に助けてもらえなかったりするから。ここで誤解してほしくないのは、僕は別に「神は何でも見てるから悪いことをしたら罰が当たる」とかそういう気味の悪いことが言いたいのではない。そんなわけないだろう。悪い人が本当に罰が当たっていたらそれは単なる偶然か、神ではなく人間が見ているから何か相応の罰が当たる。言い換えれば周りの誰か、関わる人間が誰かを〝悪い人〟と認識するからそこから上記の怒ったり何かあっても助けてもらえないということが起きる。つまり、〝神〟が見てるからということではない。〝人間〟が見ているから。というかそもそも〝悪いことをしたら神からの罰が当たる〟という教えは、誰にも迷惑をかけないようにするために言うなら逆効果ではないだろうか。神を信じない人間に言った時に効果がない上に、そもそも人間のほうがしょっちゅう会うし、確実に存在している。人間が人間に危害を加えることは簡単だ。人間の方が神よりも罰を与えられる。そもそも罰って何?その人本人が嫌だと思ったら全部罰なのか?悪いことをしなくても辛い思いする人はいるし、しかも辛い人に「罰が当たったんだよ」なんて言ったら無神経だろう?善悪は人が人を好きになったり、嫌いになったりする理由になりやすい。「あの人は〝優しい〟から好き」とか「あいつは〝最低〟だから嫌い」とかわかりやすいけど、おかしい。どんな人も誰かに嫌われたり、好かれたりするんだから、その基準でいくと全人類等しく悪い人で、全人類等しくいい人だ。つまり善人も悪人も単純な概念でしかなく、物語などでわかりやすい表現で長い説明のいらないから使われる考え方。ここで誤解してほしくないのは別に僕は善悪なんて考えなくていいという意味ではなく、〝人との関わり方〟としてならともかく、宗教というか、〝神が見てるから気をつける〟というのはおかしいという話だ。結局自分のためじゃないか。〝世のため人のため〟みたいな理解不能な筋の通っているようで通っていない話を誰にも押し付けられたくない。何か悪いことをしたから怒られてるなら僕も悪いかもしれないが、正直神とか罰がどうとか徳がどうとか言われても、心に響くどころか、引くだけだ。これは愚痴になるのだが、うちの母は何にも考えずに好きだからだなんて、趣味のような理由で宗教関係のことをしていて、しかもさらっと宗教の話をする。ただでさえムカついてるのに、そんな筋の通らない話で怒るとか、正気か?別にお金を取るような宗教ではないからまだマシかもしれないけど、昔同じ宗教の当時高校生だった習い事の先輩が言った「人の体は神様からの借り物だから大事にしなければならない」も意味不明だ。何を根拠に言っているんだろう。誰かがした話を何にも考えずに飲み込んでいるだけなのではないだろうか。そもそも神からの借り物って誰が決めたんだよ。最初に言い出した人は作り話をしたとか、妄想が酷かったとかいう可能性があるのでは。と、どうして思わないのだろうか。僕は宗教が気持ち悪い。人によってはそんな奇妙なことで救われるのだから信仰の自由が認められているのだろう。でもやっぱり平たく言えば僕は極端に宗教というか、神を信仰するという奇行とは相性が悪い。気持ち悪い。そもそも神は本当にいるだろうか。なぜ会ったこともないのにいると本気で信じるのだろう。仮に百歩譲って、いるとしてもどんな神かもわからない。何人いるかもわからない。気持ち悪い。どこまでどの宗教が当たっているのかもわからない。そんな胡散臭い曖昧な話を本気で信じて、誰も困らなくて(←ここ重要!)救われるのならそれでいいのかもしれない。けど、僕には関係ない。気味の悪い話はやっぱり嫌だ。僕があのなんにも考えずに特定の考え方のまとめ(宗教ともいう)に依存して、それで救われる?仮にそれで上手くいったとしても、だから何だ?宗教関係なく、宗教に入った後に何かしらのいいこと、または喜びやすい精神状態になっただけだろう。気味悪い。無理。嫌悪感がすごい。宗教が人を救うものならその宗教で人を不快にさせた時点で、本末転倒では?あと今は関係ないけど、宗教戦争もおかしい。人を救って、世界を平和にすることが目的なら、宗教の関係で戦争するなんて、脳に虫でも詰まったんじゃないのか?