秋葉原の事件の後で… | ケセラセラ~なるようになる~

ケセラセラ~なるようになる~

我が家は「子育て」と共に「親育ち」の真っ最中。
親子一緒にゆっくり成長していきたいものです。

 先日の秋葉原での事件は、非常にショッキングな出来事でした。

その後も連日報道される内容に、なんともやるせない気持ちでいっぱいです。


 大好きでいつも拝見させていただいているブログで、この秋葉原の事件に触れた記事を読みました。

とあるブログで、「死んだのは7人だって。もっとたくさん殺せばよかったのに」 という書き込みを目にし、おもわずコメントで叱ってしまった!という内容でした。

よくぞコメントしてくださった!という気持ちでした。

どうやら未成年者の発言だったようですし、ネット上とはいえ、スルーせずに意見を伝えてくれて良かったと思います。

携帯サイトにずっと書き込みを続けていたという犯人にも、そうやって縁もゆかりもなく叱ってくれる人がいたら、何かが変わっていたかもしれないとも思ってしまいました。


 その前に、たまたま立ち寄ったサイトで、やはり秋葉原の事件のことが話題になっていました。

「被害者の冥福を祈ります。もう二度とこんな事件が起きてほしくない。」

というような内容でした。

本当にその通りです。

でも、私はそこに寄せられた発言のひとつが、妙に気になってしまったのです。

それは 同じように事件を嘆くもので、同時に犯人への怒りを顕わにしていました。

その気持ちも分かります。

なにしろ まったく関係のない人々を巻き込んだ凶行ですから…。

ただ、

「犯人の生い立ちに同情する人の気が知れない。

 犯人だけでなく親兄弟も社会的に抹殺されるのでは?

 いい気味です。」

というような言葉があったのです。

私はこれを見て、なんともいえず嫌な気分になりました。


 親は子供がかわいくて、一生懸命に子育てします。

でも親は完璧な人間ではありません。

ちょっとぐらい間違えます。悩みます。迷います。

あるいは親と子供との相性が悪いかもしれません。

環境もいろいろです。

それでも、親は子供を成人させるまで育ててきたのです。

その成人した子供が、おもいもよらない恐ろしい犯罪をおこしてしまった。

しかも計画的に。

その時の 親の、家族の絶望を考えることはないのでしょうか?

私は けして 犯人の生い立ちに同情するわけでも、犯人を肯定するわけでもありません!!

たとえどんな事情があるにしろ、けして許されない罪だと思います。

そう思っていて なお、この「いい気味だ」という発言には、やるせないものを感じました。

その発言は、そのサイトでは何も引っかかりなく受け入れられていました。

「そうですね。親の育て方に問題があったのかもしれませんね。」…という感じでした。

それが余計に…。

正当なことを正当に主張する怖さ…

犯人が悪い・親が悪いと すべての責任をそこにまとめてしまい、想像もできない・自分とはまったく無関係だと切り捨てる…そんな風潮は怖いなぁと感じたのです。


 前述した私のお気に入りブログでの記事に、

「今回の事件には心が痛みました。

 でも同時に自分の子育てが今のままでいいのかも不安になりますよね・・
 子供は十人十色で、こうすればこう育つっていう確かな答えがないですから。」

とコメントされていた方がいました。

ブログ主さんは、

「私も不安で不安でいっぱいですよ。

 自分の子供も自分自身も、いつ被害者にも加害者にもなるかもしれぬ、という思い。

 加害者になれと育てる親はいないはずです。」

と答えていらっしゃいました。

私は、とても共感しました。

私にも、そういう不安があります。

(私がこんなことを書くと、「子供が不登校しているから余計そう思うのね」なんて思われそうで、それは嫌なのですが…けしてそういうことではありません!)

他にも

「私は、親の立場として犯人はどんな育てられ方をしたのかが知りたい。

 興味本位ではなく、同じ間違いを起こさないために・・・。」

というコメントもありました。

やはり、とても共感します。


 この事件の犯人を見ても(報道で知るかぎりですが)、特別な人ではないように思います。

どこにでもいそうな、ごく平凡な(それが本人には耐え難いことだったのかもしれませんが)男性に見えるのに…

その内に これほど深い闇が隠されていたなんて…。

物事には必ず必然がある。

だとしたら、彼がそこまで闇に落ちてしまったのには、なにかしらそうなる要因や理由があったはずなのです。

それが解明されるかどうかは分かりませんが…

それを知ろうとすることが大切なのだと思うのです。

けして例外ではない。

誰でも被害者になる可能性もあり、同時に 犯罪者になってしまう可能性だってあるのだと自覚することは、ごくまっとうで健全だと思います。

だから、「いい気味」「親の責任」と切り捨てるよりも、「不安」を口にされる方の方が、現代の社会の現状 や 人の気持ちをちゃんと考えているのではないかと思います。

前述の記事やコメントを読んで、安心したというか救われたような気がしました。



 それにしても…

犯人が携帯から書き込んでいたという内容を新聞で読んで…

ますますやるせなくなりました。

「親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから勉強は完璧。」

「中学生になった頃には 親の力が足りなくて捨てられた。」

「自分で頑張った奴にかなうわけがない。」

どうしても こんな記述に目がいってしまいます。

しつこいようですが、私は犯人の生い立ちに同情する気も、犯人の心情を肯定する気も、親を擁護する気責める気もありません!

ただ、以前 自分でブログに書いたこと

『表面だけを体裁整えて、それができずに大人になってしまい、衝動的に人を傷つけてしまう人が、どれだけ多いことか…。』

『何事も、大人に強制されて表面だけ体裁をととのえても、それが自分のものにはならない。

でも、自分の内から自発的に出てきたものは、まちがいなく自分のものになるだろう。』

過去記事「『見守る』『受け入れる』ということは…」  参照>

その考えは間違ってはいないし、これからも忘れないようにしていこう…と改めて思うのです。