「ご主人様、やはり今一度考え直してみてはいかがでしょうか…?」
執事の黒岩は、主人の身を案じていた。

「今更何を言っている。私が一度決めたら曲げないことはお前なら知っているだろう」
と、どこか悟ったような語り口で、主人の友田は返した。

「しかし、そのようなことになれば綾様も美香様も悲しまれます!」

「…光はどうだ?」

「そ、それは…」

「あいつは私のことを遺産を残す老人だとしか思っていないだろう。それにもう私も長くはない。このままでは綾と美香がかわいそうだ」

「しかし、本当にうまく行くのでしょうか?私にはとても…」

「恐れることはない。私の言ったようにすればいい。誰も車椅子に座っている君がやったとは思わない。まず間違いなく嫌疑からは外れるはずだ。それにこれもある」
友田は胸ポケットから『遺書』と書かれた一通の便箋を取り出し、右手の人差し指と中指の間で挟みながら黒岩に見せた。

「確かにそれがあれば決定的な証拠となることでしょう。しかし私のことなどどうでも良いのです。これからご主人様は『自殺に見せかけた他殺』で…、それにお嬢様方も…」

「いいんだ。娘たちも立派に成長した。父親などもういらんだろう。大事なのは今ではない。これから先に起こる不幸から家族をいかに守るか、ということだ」
そう言うと友田は書斎の机から離れ、車椅子に座る執事の黒岩の元へゆっくりと近付くと、目を閉じて背を向け、片膝立ちの状態になった。

「黒岩、言ったことは覚えているか」

「もちろんです。ご主人様…」

黒岩の手はわなわなと震え、鼓動はこれまで感じたことのないほどに音を立てて脈を打っている。やはりどうしても無理だ。

自分が30年仕えた主人を殴り殺すことなどできるわけがない。

「やはり、ご主人様…」

「黒岩!」

「は、はいっ!」

「…私が間違えていたことがあるかね?」

黒岩はハッとした。膝立ちで後ろを向く我が主の姿はとても凛々しく、これほどまでに威光に溢れた男を見たことがなかった。

「分かりました…。しかし最後にこれだけは聞いてください。車椅子で身寄りも働き口もなかった私を執事として雇ってくださったあの日から、いつか恩返しをしたいと思いながら生きてきましたが、それも叶わぬままこの日を迎えてしまいました。それがとてもツラいのです。しかしこれがご主人様のためとなるならば、私は職務を全うさせていただきます」

「黒岩…」

二人の目は合うことはもうなかったが、黒岩には目なんかよりも主人の背が雄弁に感謝を語っているように見えた。

「…ご苦労だったな」



「ご主人様…!あなたに仕えたこの30年…!私めはとてもとても幸せでございました…!」

そう言うと黒岩は、右手に持った氷の器を振り上げ、敬愛してやまない友田の後頭部を力一杯に殴りつけた。

真っ赤な鮮血をあげながら倒れる主人を横目に、黒岩はすぐさま暖炉まで行き、返り血を浴びているレインコート、凶器の順に投げ入れた。

もう後戻りはできない。

「光様…。どうしてこんなものを…」

そう言って黒岩は遺書が机の上にあることを確認し、そそくさと書斎を出て、鍵を閉めた。
これ以上、涙を現場に落とすわけにはいかなかった。















この事件を担当することになった刑事の橋本は、ゆっくりと噛みしめるように話す第一発見者である執事の言葉を、丹念にノートに書き留めていた。

「いいえ、これの他にスペアキーのようなものはございません…。この書斎に入るにはご主人様の机の引き出しにございます、あの鍵を使わないことには…」

「ふうむ…。つまりこの部屋に入れた人物は、被害者とあなた以外にはいない、ということですね…?」

「左様でございます」

「事件前後でこの屋敷を出入りした人間は?」

「ご主人様がお出掛けになる時分でしたので、玄関近くでお待ちしておりましたが、来客の方もそれからお嬢様方のお姿も見ておりません」

「ふうむ…」

橋本は顎を右手でさすりながら唸ってみせた。若い頃から見た目には無頓着な橋本は、今日もボサボサ頭に無精ヒゲを生やして現場に現れた。その顎ヒゲを右手でさすりながら思考を巡らすのがいつもの癖だった。

今回の事件の現場となったこの書斎に窓はなく、唯一の出入り口は、異変に気付いた執事の黒岩氏が開けるまで鍵がかかっていたという。完全なる密室。

亡くなったこの屋敷の主人、友田浩史は頭を鈍器のようなもので殴られた痕があり、これがおそらく直接の死因である。撲殺。しかし、現場に凶器らしきものはなく、机の上には遺書が残されていた。内容は、長女に全ての遺産を相続する、というものである。

執事の黒岩氏によると、今週末に、その遺産の受取人である被害者の三人娘の長女、友田光さんの誕生日だということで、今日はそのプレゼントを執事の黒岩氏と買いにいく約束をしていたのだという。そんな折にこんなことになってしまった、ということらしい。

橋本がしゃがみ込んで被害者に手を合わせていると、隣にいた峯岸が耳元でコソコソ話しかけてきた。
「…橋本さん、やっぱ自殺じゃないっすか?あの執事がマスターキーを肌身離さず持ってるってことはもう他に入れた人はいないんですから!」

「…その執事がご主人を殺したとしたら?」

「え!?そんなわけないですよ!あ、もしかして、足が不自由っていうの疑ってるんですかー?」

「病院の診察記録もあるのに疑うほどバカじゃない。それに鍵を持つ自分に疑いがかかるような密室を作るのもおかしい」

「ん?いやそれならなおさらありえないじゃないですか!被害者は書斎にいるところを殴られたわけですから、車椅子に座っている執事の黒岩氏が立っている人間の後頭部なんて殴れませんよ!大体、あんなに目を腫らすほど泣いてるあの執事がご主人を殺すわけがない!」

「そうだよなあ…。泣いている、ねえ」
橋本がふーっとため息を一つ吐くと、峯岸はつまらなそうに口を尖らせた。実に分かりやすい若者である。

「はいはい、わかりましたよー。そんじゃあ僕はここの三人娘のアリバイ聞いてくればいいんでしょー」

そう言うと彼は真新しい手帳を内ポケットから取り出し、渋々と現場から去っていった。橋本とコンビを組んでもう2年、お互いに何を考えているか大体の察しはつくようになった。

邪魔者がいなくなったところで橋本は事件のあらましを頭の中で整理することにした。

この事件には妙なところがいくつかある。

まず、被害者にはこのあと執事の黒岩氏と出掛ける用事があった。そして娘の誕生日を楽しみにしていたような節もある。
そんな人間が自殺をするわけがない。
つまり何者かに撲殺されている。
それなのに凶器はなく、遺書がある。これはとても不自然であり、人為的な何かが働いているとしか思えない。

そしてこの事件は密室で犯行が行われているが、その方法が本当にあるのだろうか。
そして何より、足が不自由な執事と娘のプレゼントを買いに行くという行動はあまりにも不自然なのではないか?
こんな立派な館に住まう富豪ならば、娘のプレゼントなど執事に買わせに行きそうなものだが、わざわざご高齢のご主人自ら買い物に出向こうとし、さらにはその執事を連れ立って行こうと言うのだから、やはり妙だ。

「自殺にしても、どうやって自分を殴り、その後凶器を消したんだ…?」

状況に不自然な点は多いが、橋本の頭の中のピースは非常に粗く、到底パズルの完成には程遠いのが現状であった。焦る必要はない。まだアリバイすら聞いていない。

被害者はワイシャツの上からジャケットを着ている。これから出掛けようとしていたのはやはり間違いないのだろう。

橋本は一旦被害者から離れ、この書斎に入った時からずっと気になっていた暖炉に近づいた。
遠目から見ても気付いていたが、この暖炉は火をつけていた形跡があり、その割には被害者はあまりにも薄着に思えた。
暖炉の中の薪はすこし濡れていて、何かの燃えカスのようなものもあった。

「薪がなくなったわけではなく、水をかけて消したということか…」

橋本はこの事件の矛盾の多さに戸惑ったが、ほぼ間違いなく自殺の線は消えたように思えた。これは密室殺人事件である。

そうこうしていると峯岸が嬉々とした表情で書斎に入ってくるなり、
「橋本さん、朗報です。この事件、やっぱり自殺なんかじゃなさそうですよ…!」
と笑った。
殺人現場に怯えてた頃の若者の姿はもうなかった。とても悪い意味で。

「何が朗報です、だ。人が一人死んでんだぞ」

「あ、すんません…。でもこれ聞いたら、橋本さんも喜ぶかと」

アリバイが大きな手がかりになるケースはあまりないが、容疑者のアリバイをこんな風に話す峯岸を橋本は見たことがなかった。
「どういうことだ?」

「あのですね、この屋敷の中にはあの執事と被害者の娘たち3人の、合わせて4人いました。そのうち次女と三女の2人は同じ部屋で待っているように被害者から言われていたそうで」

「被害者から…?」

「ええ。なんでも、誕生日のパーティのことで頼みごとがあるから待っていてくれ、くれぐれも光にはバレないように、とのことで、とにかく2人は一緒にいたようです」

「プレゼントは執事とではなく、娘2人と行くはずだったのかもな…」

「そして重要なのはここから!3人娘の長女の光さんは、ずっと自分の部屋でパソコンで作業をしていたそうなのですが、押収させてもらったパソコンを少し調べたらでてきちゃったんですよ…!」

「…何がだ」
もったいぶって話す峯岸に、橋本はあからさまに苛立っていたが、峯岸はどこ吹く風といったような飄々とした語り口で続けた。

「遺書ですよ。書斎に置かれていた遺書と全く同じ内容のデータが残されていたんですよ!」
峯岸はどうだといわんばかりに鼻息を荒くして橋本を見つめた。

「なるほどな…。パソコンで作成された偽りの遺書を机の上に残し、自殺に見せかけて殺した。そして遺産を受け取る、と」

「ええ、そしてもう一つ。執事の話によると、長女の光さんがこの屋敷に戻ってきたのはつい2ヶ月ほど前らしく、元夫が作った多額の借金を苦に逃げ帰ってきたそうなんです。もう間違いないでしょう」

橋本は混乱していた。
偽りの遺書。
自殺に見せかけた遺産目当ての殺人。
こんなに単純なものなのだろうか?

光さんが遺書を作成したのだとしても、本当に手を下したのは光さんだと決まったわけじゃない。
なにより密室の謎も凶器も分かっていないのだ。
それなのにアリバイや状況証拠は、光さんへと向くように仕立て上げられている。

「もう決まりじゃないですか?凶器とかは警察で自白してもらいましょうよ!」

早く終わりにして帰りたい、橋本にはそう聞こえた。
「この事件もお前みたいに分かりやすかったらいいのにな」

「え、どういうことです?」

橋本はそう言うと、ゆっくりと被害者に近づき、被害者の顔を指差した。

「仏さんの顔、見たか?」

「ちょっと!バカにしてるんですか?見ましたよ!間違いなくこの屋敷の主、友田浩史さんです!」

「そうじゃない」

「え?」

「よく見てみろ」

「えー?もうなんなんですかー?」
峯岸は被害者の顔を嫌々覗き込んだ。血が頭から顔にかけてべったりついていて、気分のいいものではなかった。

「あ!」

峯岸は思わず声に出してしまった。

「この人、泣いてたんですか!?」

「そう。被害者は死ぬ直前、泣いているんだよ。おかしくないか?」

「うーん、犯人に怯えてたんですかね?」

「犯人に気付いていたなら、背は向けない」

「そっか、後頭部殴られてるもんなあ」

「しかし被害者は殺される直前、犯人と話していたんだ。それも口論ではなく、涙を流すような話を」

「いやおかしいですよ。そしたら被害者は犯人と背を向けて話してたことになりますよ?」

「そうなんだよ」

「え?」

峯岸には橋本が言わんとしていることがよくわかっていなかった。
対して橋本はそんな様子を見るだけで、峯岸の感情が手に取るように分かった。

「10まで言わなきゃわからんようだな」

「す、すみません。どういうことなんでしょう?」

「つまりだ…」

橋本は峯岸に説明をしようとしたところで、頭のピースが徐々に形を成していくような気がした。
長年の勘で、こういう時に焦ると失敗する。落ち着いて行動しよう。
犯人は逃げない。

「被害者は何者かに殺害を依頼した、ということだ」

「なんですって!?」

橋本にはほぼ確信めいたものがあった。
だからこそ混乱していた。



「なぜ犯人は、鍵を閉めたんだ?」