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壷公が覧故考察_涯 如水の附録(Blog)

壺公仙人(涯 如水)が愚考・独行・栴檀の日々 それ、快適にして快活。 愚考する諸々に一期一会にて、日々之好石碑。 
放浪生活は人生の過半に及び、齢七十七歳を迎える。 デラシネ(根無し草)の彷徨から次なる世界に・・・・・・・・壷公曰く、天涯比隣の若し

西暦993年と775年の太陽嵐は、年輪の放射線炭素レベルを大きく変えてしまい、年代測定を約1世紀も歪めてしまうほどの「スパイク」を残した。この事実は、2012年になって初めて明らかにされた。ただし、スパイクは、11本の年輪の放射性炭素年代を比較すれば特定できる。年輪のタイムスタンプのようなものだ。

 研究チームは、西暦993年の太陽嵐によるスパイクを見つけようと、100本以上の年輪(なかには幅が1ミリにも満たないものもあった)から丹念にサンプルを採取し、放射性炭素年代測定を行った。彼らは3本の木片から、探していたスパイクを見つけた。あとは簡単な計算により、バイキングがその木を伐採した時期を割り出すことができた。「木片に年輪がたくさんあり、外側に樹皮があれば、あとは数えるだけです」とディー氏は言う。今回のケースでは、樹皮と西暦993年の太陽嵐が記録されている年輪との間には28本の年輪があった。

 ディー氏は、「これまでの放射性炭素年代測定では、バイキング時代の始まりから終わりまでの間の年代が示されていました」と言う。「今回の研究で、遅くとも1021年には伐採されていたことが証明されたのです」

 

さらにこの年代は、バイキングの世界の西端に位置する「ヴィンランド」に彼らが定住地を作ろうとしていたことを伝えるアイスランドの2つのサガ『グリーンランド人のサガ』と『赤毛のエイリークのサガ』を裏付けるものである。どちらのサーガも1200年代に書かれたもので、歴史的な出来事や人物についての言及があるため、研究者は西暦1000年前後の航海年表を再構築できる。

ゾーリ氏は、今回明らかになった年代は、アメリカ大陸のバイキングに関する知識を一変させるようなものではないと言う。しかし、西暦993年の太陽嵐のスパイクを用いれば、ほかの遺跡でも新たな知見が得られる可能性がある。「特定の出来事を遺跡や建物と結びつけたいとき、正確な年代が明らかになれば、私たちの理解も変わるかもしれません」とゾーリ氏は言う。

ディー氏は、この年代が特定されたことで、アフリカで誕生し、ユーラシアを経て南北米大陸へと拡散した人類が、大西洋を越えてやってきた人類と初めて出会った時のことが明らかになったと感じている。「バイキングによる大西洋の横断が最後の一歩だったのです」と彼は言う。「私たちが明らかにした年代は、そんな日が本当にあったことの証拠なのです」

・・・・・・次回は新説“コロンブスに勝てなかった“新大陸発見者”とは?”に続く

⨁⨂参考資料: ヴァイキング(Viking)とは…!!? =4/4= ⨂⨁

本格的なヴァイキングの時代が始まるのは、793年の北部イングランドのリンデスファーン修道院襲撃からとされる。以後、795年にはヘブリディーズ諸島アイオナ修道院を略奪し、北海沿岸を襲撃していくようになった。だが、9世紀半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになった。いくつかの場合、これらの越冬地は永続的な定住地となっていった。

中世初期の文献資料は、ヴァイキングに敵意を持つ西欧人の記した記録や伝承記が多い。中世の西欧人にとってノルマン人(ヴァイキング)とペスト(黒死病)は二大脅威だったのである[1]

793年、ノルマン人と思われる一団によって、ブリテン島東岸のリンディスファーン修道院が襲撃された。このことは「アングロ・サクソン年代記」に記されており、西ヨーロッパの記録に記された最初のヴァイキングの襲撃とみなされている。

ヴァイキングは、9世紀にフェロー諸島、次いでアイスランドを発見した。そしてアイスランドからグリーンランド、アメリカ大陸(ニューファンドランド島と推測される)へ進出した。彼らはまた、ヨーロッパの沿岸や川を通って渡り歩く優れた商人であったことから、グリーンランドを北端にして南はロシアの内陸河川を航行してイスタンブールに進出していった。

ヴァイキングは海岸線を伝い、現在のフランスやオランダにあたる地をしばしば攻撃した。デーン人は、834年にフランク王国を襲撃、843年にはロワール川の河口に近いナントを襲った。10世紀に入るとパリがヴァイキングにより包囲され、ロワール川流域も荒廃した。10世紀初め、ヴァイキングの一首領ロロが西フランクを襲撃しない見返りとして、シャルル3によってキリスト教への改宗と領土防衛を条件に、フランス北西部のセーヌ川流域に領土を封じられた。これがノルマンディー公国の始まりである(なお、ロロの子孫で西フランク(フランス)王の臣下でもあったウィリアム1がのちにイングランドに侵攻し、ノルマン朝を開いている。これが1066年のノルマン・コンクエストである)。

ヴァイキングの西欧への侵入は当初は略奪目的が少なくなかったものの、9世紀末以降は、ロロの例にみられるごとく定住化の傾向が顕著になる。これは、ヴァイキングの故郷であるデンマーク一帯に統一権力形勢の動きが起こることと連関があり、故国で志をえない有力者が部下とともに移住するケースとみられる。

 

         

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