「串刺し公」ヴラド3世(2/3) ; 歴史深層が真相(002)  | 壷公が覧故考察_涯 如水の附録(Blog)

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壺公仙人(涯 如水)が愚考・独行・栴檀の日々 それ、快適にして快活。 愚考する諸々に一期一会にて、日々之好石碑。 
放浪生活は人生の過半に及び、齢七十七歳を迎える。 デラシネ(根無し草)の彷徨から次なる世界に・・・・・・・・壷公曰く、天涯比隣の若し

 

 1448年、16歳だったヴラド3世はオスマン帝国の助けを借りて、ヴラディスラフ2世を追放し、権力の座に就いた。ところが、そのわずか2カ月後にハンガリーがヴラディスラフを再びワラキア公に据えたため、ヴラド3世は国を追われ、それから8年間オスマン帝国とモルダビアを転々としていた。

 

 この間に、ヴラド3世はオスマン帝国からハンガリーに鞍替えしたようで、ハンガリーから軍事支援を受けるようになった。ヴラディスラフの方は逆にオスマン側に寝返り、こうして再びワラキア公の座をめぐる争いに火がつけられた。1456722日、ヴラディスラフと直接対決したヴラド3世は、ヴラディスラフの首をはねて、公位を奪還した。

 

恐怖支配

 その頃、オスマン帝国とハンガリー王国の度重なる戦いと貴族同士の内紛により、ワラキアの国土は荒れ果てていた。ヴラド3世はすぐに犯罪の厳しい取り締まりに乗り出し、虚言などの軽い罪であっても断固とした対応を取った。公職に就く人間を自ら選び、平民や外国人であっても起用した。自分に完全に依存した人々で側近を固めることで権力を強化し、独断で側近の任命、罷免、果ては処刑まで行うためだ。

 

 父親と兄の暗殺に関わった貴族たちへの復讐計画も、着実に実行に移した。1459年、イースターの晩餐会にそのうちの200人を家族とともに招待して、女性と老人はその場で処刑し、串刺しにした。男たちは強制労働に就かせ、死ぬまで酷使した。こうして建てられたポエナリ城は、ヴラド3世お気に入りの居城となった。

 

 

 敵に対する残虐な行為は、時には自国民へも向けられた。ホームレスや乞食は盗人とみなし、彼らを晩餐会へ招待してドアに鍵をかけ、火を放って焼き殺した。ロマ人(ジプシー)も、虐殺したり軍へ強制入隊させたりした。ドイツ系住人に対しては重い税をかけ、納税を拒否した人々の商行為を禁止した。

 

 ヴラド3世の影響下にあったドイツ系住人の多くは、12世紀にハンガリーがトランシルバニア地方を支配していたときに移住してきたザクセン人だった。ほとんどが裕福な商人だったが、ヴラド3世にとって彼らは敵であるハンガリーの同盟者だった。

 

 ヴラド3世は、その後数年間でザクセン人の村々を根こそぎ破壊し、数千人を串刺しにした。1459年に、トランシルバニアのクロンスタットというザクセン人の町(現代のブラショフ)がヴラド3世のライバルを支持すると、ワラキアでのザクセン人の商売に規制をかけ、3万人を串刺しにし、クロンスタットの町を焼き払った。さらに、人々の苦しむ姿を直接楽しむため、串刺しにされた人々を前にして食事をとったという言い伝えもある。ワラキアへ戻ったヴラド3世は、さらに規制に違反したザクセンの商人たちをも串刺しにした。

 

 こうして、いつしかヴラド3世は敵から「串刺し公」と呼ばれるようになる。

 

・・・・・・明日に続く・・・

 

 

⨁⨂参考資料: ヴラド・ツェペシュ (2/3) ⨂⨁

 

ヴラド3=冷徹な統治=

ワラキアは元々土着の豪族による連合政権といった色合いが強かった。ヴラドの祖父であるミルチャ老公は公権を強化したが、彼の死後、息子たちと彼の異母兄であるダン1世の系統(ダネシュティ家)との間の公位争いが激化した。有力な貴族の合議によってたびたび君主が入れ替わったことでその権威は失墜。

かわって、貴族勢力の専横が著しくなった。また近隣にオスマン帝国、ハンガリー、ポーランドといった列強が存在し、それらからの干渉も受けた。ヴラドもオスマンやハンガリーの思惑で即位したが、その中にあって君主に権力を集め、中央集権化を目指したとされる。

 

伝承によれば、ヴラドは有力貴族を招待して酒宴を開き、油断した貴族らを皆殺しにしたという。また治安維持や病気流行の抑止として貧者や病人、ロマ(ジプシー)を建物に集めて火を放ったという。また次のような伝承もある。オスマン帝国からの使者がヴラドに謁見する際、帽子を被ったままであった。なぜ帽子を取らないのかと問うと、トルコの流儀であると応えた。ヴラドはならばその流儀を徹底させてやると言い、帽子ごと使者の頭に釘を打ち付けたという。

 

オスマン帝国との戦い

ヴラドが生まれた時代は、オスマン帝国の攻勢によってルーマニアやハンガリーが圧迫を受け、その勢力に呑み込まれていく過程にあった。ヴラドは勇猛で軍略に優れ、オスマン帝国に対してよく抗戦し、近年ではシュテファン大公ミハイ2世勇敢公と共にルーマニアを守った英雄とされる。

 

 

 

小国ワラキアが長年にわたってオスマン帝国の侵略に抵抗できたのは、オスマン帝国内部の紛争の他、直轄軍の存在や積極的な焦土作戦の採用がある。たび重なる戦勝にヨーロッパは沸き立ち、ヴラドが正教徒であるにもかかわらず、ローマ教会関係者から賞賛の声が届くほどであった。

 

ハンガリーでの幽閉

ポーランドとハンガリーは、東方のカトリック大国として十字軍を送るべしという有形無形の重圧を、西欧諸国やローマ教会から受けていた。しかし、両国共に内部に反乱分子を抱えて不安定な情勢にあり、またヴァルナ十字軍を始めとする対オスマン帝国戦争のたび重なる失敗もあり、十字軍を回避しようと画策していた。その一方で、正教国家とはいえワラキア、モルダヴィア、アルバニアなどの小国がオスマン帝国に善戦している状態で手を引くわけにはいかなかった。

 

このためハンガリー王マーチャーシュ1は、1462年にヴラドをオスマン帝国に協力していたという罪で捕らえ、幽閉した。この突拍子もない罪状を世間に受け入れさせるため、マーチャーシュはヴラドの様々な悪行を誇張・捏造して書かせ、パンフレットにして各国に配布した。曰く、「ヴラドは人を無差別に殺し血肉を食らって晩餐を開いた」「ヴラドは田畑を燃やして農民を飢えさせた」。これには発明されたばかりの印刷技術が用いられた。

 

しかし、対トルコ戦の英雄であるヴラドの幽閉は、諸外国への配慮もあってやがて緩やかになり、一等の城を与えられ、監視付きではあったが出歩くことも許された。マーチャーシュと共に宴会に出席したこともあった。また、この幽閉中にマーチャーシュの妹と結婚した。

 

        

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