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domanのブログ

The purpose of this is a display of my opinion and concreting it.
ブログでは主に、新聞や鑑賞した作品について書きます。

人を例えば「あの人は頭がいい」と評すると場合、定義にもよるけど、それがその人の評価に単純すぎるくらいに直結している場合がある。
これは、人間の機能上しょうがない話だけど、文学的に表現すれば、遠ざける意味での肯定的評価、であるだろう。芸能人に対する過剰な崇拝態度はこれを顕著にあらわす例である。もちろん、例外はある。
これは、文化を比較するような態度に顕著であると思われる。
現代版帝国主義を背景に、西洋と日本文化の対比の中に、少なからず入り込む、均一化の態度はまさにそれで、多文化主義を標榜しているのかもしれないが、それは学際的な意味でのそれとは大きく異なる。
日本では、アカデミズムと文芸界が離れているというが、それは民衆の位置が曖昧だからだと思う。
だけど、一方、西洋においては、その曖昧さ霧消している。
この違いが大きい。

加えて、昨日も抽象的に書いたけど、そのような態度は必然的に民衆の価値基盤をを覆うってこと。
ネットメディアの勃興と深化で、オピニオンリーダーも偏在するようになって、中世みたいに特定のprincipleが支配的に機能することはないと思うけど、むしろだからこそ、自覚のある変に偏ったコミュニティがいくつみ形成されて、普遍的な価値基盤が失われる。そして、その反動として、情報処置が容易なものが、世間一般にcommitmentした時の価値規範として機能し始める。
これがブッシュ時代に顕著な悪/正義の二項関係的理解に近いものに見えるのは偶然ではないと思う。この場合はもっと自然に馴染むから、そこを再帰的に考えようとはしない、むしろ、システムとしては、diversityとか、いい意味で奨励されるような流れであって、それを補償するかたちで、アイデンティティーが要請されている。
この構造を再帰的に意識できてないと、永遠にこの課題に取り組むことになる。
ここで思考が止まるのがベストだと思う。
現時点でこれの代用品になるシステムはないわけだし、間違いなくチャーチルが正しい。
でも、このことに気づけないと、過剰なコミットメントをして弊害がでる。でもこの弊害自体、病気やら、社会悪やら、で社会の構成要素として内包されるから、自覚もしくは法に触れる、公共の利益に反しない限り、問題にもならないので、”別いい”わけで。
だから北大生がイスラム国に就職しようってのも、その限りだと思う。
だけど、そのidentityっていう構成概念をあたかも実在するものとして扱うような態度のせいで、その人の個人特性、いわゆる性格とかに原因を帰属するような認識の仕方は、ドゥルーズたちが指摘したように、おなじような機械の生産に他ならない。
つまり、identityが差異によってなりったている、この事実以上のことをそこに付加して、identityを確保するような仕方は、その仕方が相手にも当てはまることを見逃すっていう、初歩的なミスに陥り易い。様相は違えど、システムは同じ。ようは、初期の設定が違うだけで、同じゲームをプレイしてるだけ。それにも関わらず、ゲームの優劣の話をするっていうよくわからない現象が起きやすい。
少し過度に足を突っ込むと、これについて、若い人はmarginalだと思う。いい意味で周辺的だし、identityをしっかり道具的に利用していると思う。決定を急がない態度は、逆に今を反映しているとも見れるし、そこまで深くコミットしない、これは、前提として(英語の意味での)commitmentが必要であるっていう現行の教育に対して、”保留”を示すいい例だと思う。(実際、日本人のidentityの使い方は、語源から勉強するような意志がある人でないと、そういう意味での正しい利用は難しい気がする。まあ、だからこそ、保留の態度は適切だと思わされる。)
だから、今のサイードのオリエントの概念を彷彿とさせるような押し付けがましい輸入概念の数々の受容は、深夜ラジオのサーカスティクさによって失敗に終わって成功すると思う。
成功の定義は、判断しないことがフリの概念くらいに利用されるようになることだと思う。