例えば、ミスチルのファスナーという曲の論理、些末に広がりを見せる意味とは対置して、おおよそ一義的に定義される。この運動にこそ、人間の弱さの露呈≒機能的限界を露呈する儚さを付加する、という見方もできるけど、実際は、それは強さ、あるいは、正しさとして受け止められる。それこそ、かれらは、ファスナーが下がらないように一生懸命にあの小さい金具を指でつまんでいるわけだが、鬱血して、爪先と第一関節の間の溜まったその血にその姿が弱さ=美しさとして立ち現れる、そんな認識が自然なのだろう。
今ここに書いたような認識は、その二つのちょうど真ん中、アンビバレントなどっちつかずの位置にある。そこから、一歩進めて、ファスターを開けるという行為自体に話を移してみる。例えば、ドラえもんの後ろに実はファスナーがついていて、中には……、まあそれは置いておいて。
やはり、曲にあるように、すべてのことにはファスナーがついているし、挙げ句の果て、自分にだって実はファスナーがついている、そうやって、ドラえもんのファスナーも受け入れるしかないのかもしませんね。。。
幼稚園の頃、たぶん同じ園児のお父さんだと思うけど、行事のたびにウルトラマンの恰好をにして来てくれる人がいて、たぶん、当時の自分はそれが本物とかどうかとか考えてなかったし、ファスナーの有無なんて気にしてなかった。たぶん、そういうことだと思う。仕舞い込むのもファスナー。
けして、ファスナー自体をなくそうなんて考えない方がいい。