パラノイア(偏執病)、秩序だった妄想によって生まれた文化がオタクの体系だとする。しかし、それは、権威のもとに生まれたアカデミズムと違い、その対置から生まれている。ニーチェの系譜に従うなら、それは弱者が生み出す、ある種の道徳性だということになる。しかし、それは、権威の転覆の転覆の現代において、また違った様相のもとに現れた。つまり、自らをパラノイア的であると自負する在り方が前提にあるわけである。巨視的に見るなら、永劫回帰の相を伴う(ニーチェに従うなら、そう見ているというべきか、)。それは大多数の世間によって、案の定、偏狭なものへと意味づけをされたわけである。まさに、狙い通り、そこに、道徳性の第二の転覆がある。キリスト教的弱者の救済は、現代において、自らを異端であるという再帰的な意識に依って自らを補完するという形で現れた、のではなく、作り上げられたわけである。つまり、単純かされた二次元を崇拝する、あるいは、同一化を計るという、不可能を不可能のうちに信じ込むという行為を通した、アイデンティティの確立なのである。その行為を通してのみ、三次元の美しさを措定することができるわけである。それは、不細工な彼氏を愛する彼女の心情である。
「こんな彼を好きだと思えるんだから、好きに決まっている」
この言動を、アカデミズムは、倒錯していると、もしくは、防衛規制(自己同一化、反動形成、合理化などが重複していると分析されるだろう)が働いていると診断するだろう。しかし、それは、オタクにおいては、道徳性でしかない。しかし、ドMな彼らは、その診断を甘んじて受け入れる。その時、初めて、人間たり得るからである。
最後に誤解を避けるために注釈をいれるが、オタクが診断を受け入れるのは、自我性を持たないからである。
自我という錯覚→関係中心主義への意向という構図を取り、さらにそこに、”Parspektivismus”(特定の視点・視座[パースペクティブ]を置くことでしか、物事を実態かできない人間の習慣)というメタ構造を導入することで、自我そのものを消去するという段階的理解を促し、その上で、永劫回帰という不知の次元(いわば、同じ現象の反復である。つまり、そこに差異がないため、実際は私体はそれを知覚できない)を敢えて導入することで、超人思想を見いださせ、道徳性の転覆を、意味論の領域において、達成することを目的としたのが、ニーチェの理論である。
オタクは、これを知りうる者として、私は措定している。
つまり、オタクという全体性においてのみ、世間一般から理解される領域を作り出し、自己をそこに埋没させる。加えて、短絡的な世間一般(例えば、彼らは、特定の犯罪者を批判する時、その人の個人的資質を責めるだろう。それは、自由意志を前提にし、選択性があったことを無反省に認め、”個人の選択”を理由にすることで、倫理という概念を形成する認識構造を持つ人々)に対して、彼らの倫理というものを否定しないように、全体性としてのオタクは、過度な合理性ーパラノイアにおいて、部分的に倫理を疎外する事で、部分的に批判されるような仕組みをとっているのである。
そこに自我性を見いだすのは世間一般である。オタクたちは、その”自我性”とは決別をし、新たな自我性を作るわけである。
従って、ここに、再び、永劫回帰を見る事は可能だろう。
彼らをドMだと見なし、診断を受け入れると考えるのは世間一般であり、彼らはオタクだから診断を受け入れるのである。
価値体系は、常に、一人では成り立たないために広がってしまう、そうすれば、不可避的に、道徳性や倫理というものが生まれ、同じようなことが繰り返される(そう見る事もできると言える程度のこと)わけである。
しかし、オタクという概念は、海外の人が、日本のAVを"hentai"と言って珍しがる事から見ても、異質なのであるだろう。