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The purpose of this is a display of my opinion and concreting it.
ブログでは主に、新聞や鑑賞した作品について書きます。

定義1 ”意味”とは、ある対象における、利用の可能性のことである
公理1 存在が証明された場合、それを否定はできない
公理2 存在するとは”意味”を有することである
公理3 ”意味を有する”とは”利用可能性をある主体によって見いだされること”である
公理4 ”主体”とは、利用の可能性を見いだす以外の”意味”を持ち得ない。つまり、主体とは利用の    可能性の産出機構であり、自身についても同様の操作を行う。従って、”主体”は意味の意味    にして、それ以上、退行できないものである。
 
 以下で、この公理系について、例を出し、説明したい。

 例えば、イスがあったとする。その時、イスは、「座る」という利用の可能性を主体によって見いだされることによって、意味を有し、存在していると言える。また、その意味を見いだす主体は、その利用の可能性を見出すという利用の可能性によって、意味を有し、存在しているが、それを行うのも、また、主体である。これ以上の退行はしない。この時、イスの存在を疑うことはできない(ルール違反)、なぜなら、”存在する”からである。

 ※この場合、”疑う”とはどのような事なのかということが、後々、問題になるため、先に簡易的ながら説明する。
 この場合の”疑う”とは、広義的には、否定・批判の意味を有すると考える。この社会には、ネットの上の書き込みから、アカデミズムの論争まで、否定・批判の意味を有する行為が存在するが、その程度が様々であることも、また事実であるため、この場合は、あくまで”疑う”とは、ある対象について、それ以上の”利用の可能性”を排除するようなものであるならば、疑うことはできないとしたい。
これは、公理1と同義である。敢えて、このことを言うのは、利用の可能性を否定することはできないということを強調したいからである。
 ものごとの否定には、特定の利用の可能性が根底にある。
 例えば、音楽における「4つ打ち」は、「等間隔に、1小節に4分音符が4回続くリズム打ち鳴らされるリズムのこと」であるが、もし、音楽について知識があまりない野球少年が「4つ打ち」という言葉を聞いて、「セカンドに打球がいくこと」だと思い込み、普段の会話でそれをそのような意味で使っていることを、音楽理論オタクの僕の友達が否定する際、音楽理論上での定義を持ち出さずに否定することはできない。
 つまり、これは通常の会話では、まったく変ではないが、この公理系で話をする際には、禁止する。というのも、言葉とは、現実世界において、そのようにしてのみ利用の可能性を持っているからである。
 
 話を戻し。

 しかし、ここで、注意していただきたいのは、このように書くと、あたかも、人間(=主体)が能動的にある対象から、その利用の可能性を見出しているように思われるかもしれないが、それは、あくまで、”意味を考える”ということを仮定した場合でだけである。実際の世界、普段私たちが生きているような社会は、このようなものであると、私は考えている。
 むしろ、注目していただきたいのは、公理3の無限退行を無理矢理切り上げている部分である。意味の付加は結局、その最も根源的な意味の付加について、なにも、述べる事ができない。ここに、一般的な(というと誤解があるかもしれないが、)意味解釈の飛躍がある。
 最も三角形らしい三角形について説明できるか、というような、古典的、典型的な問いにも似ているが、結局、人間の意味とは、私たちが知覚する事が出来ないとされている領域(カントの物自体のようなもの)と、なんらかの関係性を表すのにすぎないのだろう。
 アイデンティティというような、構成概念についても同じように、”利用の可能性”を見出す作業によって、その存在を証明できるだろう。従って、それ自体を見出すことはできない。
 


 それによって例えば、悩む例を見てみよう。いくつかのパターンが考えられる。相互的に効果をなしている場合がほとんどだが、箇条書きしてみる。
 
1、悩んでいたら、その悩みがメディアなどで、”アイデンティティの拡散”あるいは”アイデンティティの欠如”というような用語で説明されていたため、それをアイデンティティの悩みであると認識している。

2、特に、アイデンティティという言葉は知らないが、なんとも言えない恐怖感や心的な不安、神経症などを持っていることを第三者によって、アイデンティティの問題であると認識されている(らしい)。

3、世間一般で、アイデンティティという言葉を使い、それを社会問題として扱っている。


 おそらく、大きくこの3つだろう。どれも主体が違う。当事者、第三者、世間一般である。それそぞれの主体が”利用の可能性”を見出すことで、”アイデンティティ”という構成概念が”意味”を有し、存在している。面白いのは、どれも”アイデンティティ”という同じ言葉を使用しているのに、”意味”は違っている、つまり、利用の可能性が違っていることである。

 


 この時に、問題になるのが、”利用の可能性”という構成概念である。

 公理の根底を貫くように設定したこの言葉について、説明をするというのは、難しい。というのも、主体の意味について説明できない原因それ自体を説明することと同じであるからである。”神”などの概念も、このような行き詰まりを解消するために、しばしば用いられるが、それに近いからである。神もそのような記号にすぎないと、無神論者である私は考えている。
 
 この言葉の導入は、人間の認知のメカニズムによっている、アフォーダンスの思想に近いかもしれない。
 
 ”環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値であると定義される。”

 つまり、人間の脳や感覚器官や神経系など、そのような物質的なものが根底にあり、閾下知覚や、ゾンビシステム(意識にのぼらないが生命の維持の役割をになっている人間のシステム)などから説明されるように、人間の意識は、いわば、その副産物というと語弊があるが、生命の維持のひと部分にすぎないという考えをベースに、環境の探索=経験によって獲得されるような価値/意味は、そのようにして、構築されるものにすぎない、後付け的に付加され、習慣化されたものであるという理解である。つまり、行動の変化によってそれらは十分に変化すると、私は考えている。そのため、利用の可能性とは、けして、一義的に捉えられるものでなく、行動の変化の後に構築される変容しうるものだと考えている。主体(視点)の峻別にしかり、”可能性”という言葉には、そのようなニュアンスも含めている。
 
 

 この証明のねらいは、意味とは、そのような特定の立場、状況、視点において、見出されるものにすぎないということを、示すことにある。
 従って、私は、”アイデンティティ”という概念には、いささか、嫌疑を持っている。そのようなものが措定される必要性があるのか疑問である。その手始めとして、その概念自体、特定の利用の可能性が先立っていることを示すことで、一つでも、違った見方を示したいと考えた。


 問題を解決するのは哲学かもしれないが、問題を生むのも哲学である。
 この”哲学”は、何にでも書き換えが可能だと思う。